加速度的にスピードが増していく時代、それは何でも捨てていく時代だとも言えます。一体何を捨てているのか、それは物語を捨てていくということです。日々の暮らしも永い目で観てどのように暮らしていくかを省みるのではなく、刹那的な目でその場しのぎでこの一瞬さえ乗り切ろうとすることを繰り返しているようにも思います。
本来、今立っている場所をよく観直すと今まで久しく紡いでくださった時間の重みを感じるものですがそれをも感じることがないくらい目の前のことに追われていく日々を人々は送ります。
この目の前に追われていく忙しい日々になったのはなぜか、今の心の問題や社会問題もここに集約されている気がします。
昨日、クルーのみんなと一緒に福岡県八女市の福島地区を見学する機会がありました。その中でかつてのものをかつてのままに修復し修繕しながら町屋を再生していく姿を観ました。
簡単に新しいものに換えてしまうのは歴史がなくなってしまうからと、本物のままに遺そうと工夫を凝らしてパッチワークのように古材を活かしながら修理をしていきます。これは単に古いものを守ろうとしているのではなく、物語を守ろうとしているのだと感じます。全ての”もの”には記憶があります。それは一緒に暮らしていく中で、関係性や御縁の中で同じ時を共にした大切な思い出の存在だとも言えます。
だからこそその物は単なるモノではなく、その物には掛け替えのない一期一会の物語があります。物語があるということは無機質の存在であってもいのちが宿っているとも言えます。例えば何百年も前からある柱に子ども達がせいくらべをした痕跡があったり、屋根裏に隠した落書きがあったり、道具一つにはその時代を共に生きた人たちの魂の痕跡があります。その痕跡と共にあるものは、その痕跡の御縁に今も結ばれているとも言えます。
そうやって愛し愛されたものの思い出は時代を超えて今に伝承されていきます。そのものの物語を新しくその物語の続きを綴るのが私たちの存在そのものでもあります。
昨日の振り返りで特に印象深かったのが、今の時代ではもう素材が手に入らず修理できないまま壊れているものがあるという話です。それをどうするのですかとお聴きしたら、「材料がないからこのままにする、後は来世の楽しみにとっておく」と仰っていたことです。
今世でそのものを修理できなくても、来世生まれ変わったら修理してあげたいと願う心。思い出を大切にして何度もその思い出と触れていきたいと、いつまでも感じる心の中に魂の邂逅と勿体なく生きている人間と先祖たちの生き様が観えてきます。
来世もあるからこそいい加減な関わりは持つまい、そして捨てるのではなく大切に物語を紡いで綴りたいと感じるのです。この魂の綴りこそ時を超越して悠久の中でご縁に活かされる豊かで仕合わせな暮らし方の証明だと私は思います。
勿体ないという言葉、おもてなしという言葉、真心という言葉、それは全ての中心に「物語」があるということです。物語がないものがないからこそ、どんな物語を温故知新していくかは自分の生き方次第です。
悠久の時の流れの中にある今の御恩に報いられるよう、また来世の子ども達のためにも全ての機縁から学び直して紡ぎ直して永遠の物語を語り続けていきたいと思います。