教育とは何かと考えるとき、人は単に知識を教えることだけが教育ではないことは誰でも認識していることと思います。なぜなら知識で教えられることと知識では教えられないことが存在することを知っているからです。
例えば、生物というものには本能というものがあります。生まれながらにしてどのように生きていけばいいかというのを生物たちは自明します。生まれた生き物たちは周りに同じ種類の生物がいなくても食べて寝て、自分の特性に気づいて自ずからその特性を伸ばしていきます。
これは人間や動物に限らず、植物昆虫をはじめ様々な生物は自ずから自分がどのように生きていけばいいかを己の中から自明しているのです。自然科学が解明されればされるほど、遺伝子や本能、先祖から時代を経て淘汰されて残った智慧を母親から受けとっていることが分かってきます。
古来よりこのことを「伝承」と人々は呼びます。
この伝承というものは、言い換えるのなら「文化」とも言います。文化は一朝一夕で出来上がるものではなく、その環境の変化の中で本当に大切なものだけを残し、他は省き温故知新して今の時代まで受け継がれてきたものです。今を生き残っているということは、それを永い時間をかけて先祖たちが命を懸けて体験し子孫へと受け継いできたのです。
こういうものが本来の教育の本質であると定義するとき、「場」というものが如何に教育に密接につながっているのかに気づき直すと思います。今は世界ではティーチングではなく、ファシリテートという言い方をして教育改革が行われていると言います。
私からすれば本来の教育の定義が変わることなしに、その価値観も変わることはないのではないかと思います。教えられないものを教えていくものが本来の教育であると、如何に刷り込みを取り払った人たちが増えていくか、そこがまず大切な議論の元になると思います。
見守るということもまた、今の自分がどのように育ってきたのかを自分に内省して紐解いていけば次第に気づくように思います。
まず何かをする前に、常にゼロベースであるか、本質は何か、何のためにするのかと考えることで刷り込みは次第に取り払われていきます。そして取り払われた刷り込みを文化レベルで原点回帰する必要があります。しかしその原点回帰は、今の時代に通用する温故知新した習慣を刷り込みのない人が新たに開発しそれを広め実践していかなければなりません。
例えば「場」一つで考えても、明治以降の日本の場と、明治以前の場ではあきらかに環境は激変しています。日本建築が西洋建築に変わったように、それまでの家が持っていた文化の伝承は途絶えてしまっています。
途絶えた文化を早めに復活させ、もう一度元に戻すという作業は早ければ早いほど修正がきくと思います。遺伝子や本能に遺る、それまでの自分たちの先祖たちが生きてきた生き様や知恵を如何に子ども達に伝承するか、本来の子ども第一義の理念にそって取り組んでいきたいと思います。