人は思想を持ち、実践を積み重ねていくことで「場」というものが創造されていきます。この場というものは、そこで生きている人たちが思いを大切にし行動した集積によって文化が醸成されていくものです。そしてその場には目には観えない確かな「息づかい」や「佇まい」といったものが顕現してきます。
「場」というものはもっとも長い年月人々が教えずに学んできた人類最高の智慧の仕組みといってもいいかもしれません。
その場が出来上がるまでは、何回も何回も季節の廻りの中でその時々に思いを抱いて手入れを怠らず実践を積み重ねて文化にまで昇華していきます。この文化というものは頭で知識として知ったから分かるようなものでは一切なく、その場で共に学び一緒に暮らし、互いに自他一体の境地をもって初めて感得できるある種の境地のように思います。
今の時代は、知識一辺倒でこういう「場」のことを考えることがありません。本来、「場」こそが教育の本質であり原点ですがその場のことは思わず場違いなことばかりをしています。たとえば歴史を学ぶのにその場にいかず卓上でだけ教えることや、生活を学ぶのに実践することなしに映像でだけで伝えたります。特別に何かをじっくりと体験をさせるのではなく、上っ面の表面だけをなぞるように見た目だけを教えたりします。
こんなものでは文化の継承などは行われるはずもなく、子ども達が自国の歴史や文化について関心を持てるはずもありません。世界では自分たちのルーツ、つまりはどのような経過でここまで道を歩んできたかといったプロセスを子ども達に「場」を用いて伝承します。そうすることで、その国の長い年月で淘汰してきた暮らしの智慧を伝承し、未来の子ども達へその気候風土で生きてきた自然の叡智を引き継ぐことが出来ます。
知恵というものはすべからく先人たちが自らの体験をもって試行錯誤して得て来た貴重な財産です。その財産を「場」によって伝えようとしたのが私たちの先祖だったのでしょう。
しかしその「場」を今はいともたやすく破壊してしまっています。海外からも日本人はいにしえの伝統的建築物や、それまでの文化をまったく大切にしていないと非難されています。古いものが価値がなくなんでも新しいものばかりが価値があると信じ込まされているようにも思います。今を生きる世代がその本来の場の価値に気づかなくなったのはこの「場」による教育が失われたからではないかと私は思います。
人は詰め込み教育ばかりして暗記して知識をいれてテクニックばかり教えても先人の智慧を体得するわけではありません。先人たちの生きた息遣いを感じる「場」に自分の心身を運び、何度も場数を踏んでは先人たちの智慧を学ぶ。学問の大道は全てにおいて暮らしを「温故知新」することで成立すると私は思います。
引き続き子ども達のためにも、「場」づくりを怠らず、「歩歩是道場」だと真摯にこの居場を実践で文化の息遣いを譲っていくことこそが先人の知恵と真心を受け継ぎ守ることだと常に回訓し、「場」を見守り育てていきたいと思います。