昔から家というものは、その土地や風土、その国の価値観を今でも色濃く建物の中に遺ってあるものです。山の中や海の近く、川の傍から谷の底など、その場所場所で家は工夫されてきました。また英国やオランダなどヨーロッパの家と中国や韓国などのアジアの家、それらは気候風土だけではなくそれでの伝統も家の中のつくりのなかに取り容れられています。
日本人の家は南は沖縄から北は北海道と気候風土も異なりますが、家の中にある価値観は同じようなつくりで建てられています。例えば畳、縁側、瓦、土間、障子、襖など、これは全国各地のどこの日本の家でも共通して存在していました。
今では和風建築に残るくらいで、ほとんどが西洋式の建物に変わってしまいそこに住む人々の価値観も次第に変わってきています。
日本の家というのは、自然の世界と人間の世界の境界線がほとんど曖昧につくられています。西洋の家では、塀や堀、また壁によって外界との共感線ははっきりと遮断されます。
たとえば、西洋などでは冬になれば全て窓を閉め切り完全密封して暖炉で家ごと暖めます。しかし日本は、隙間風も多く囲炉裏や火鉢、炬燵の近くに人間の方が近づいてじっとして暖まります。自然から切り離して人間の都合で人間の慾を満たそうとするのではなく、70パーセントの快適さ、腹八分目、ほどほど満足、足るを知るかのような境地でそれは少々我慢します。
たとえ部屋が暖まり快適にならなくても、みんなが火があるところに手が届く距離でみんなで暖をとれば、その分、人の暖かさで温もりがとれるという考え方だったのでしょう。日本人のこのような発想の工夫、自然の活かし方、人間の心の活かし方はまさに自然と人間が調和しているように思います。
もしも100パーセントの快適ばかりをめざし、いつも満たされていたら人間は次第に傲慢になっていくのかもしれません。数パーセントの不便をもゆるさず、その不便を克服するためにさらに自然から遠ざかっていくように思います。
しかし日本人の謙虚さは、自分だけを満たさず周りのことも思いやることで少々我慢しますがその分、思いやりが通じ合うことによる感謝やぬくもり、一緒に生きる人々の安心感が得られるのです。一人でなんでもうまくいけばいいとやればやるほど実は孤独になり、不安を抱えているという話はよく聴きます。自分勝手が人間を孤独にしていくとも言えます。実際には、人は一人では生きていけませんから不便だからこそ人は助け合い、不便だからこそ思いやれます。しかしその不便は安心というもう一方での眼には見えない心の快適や平安を産み出しているのです。
自然と共に暮らす安心感とは、いつも一緒につながりあっている安心感です。自然から切り離すことでその関係も切り離されます。日本人の持つ、御縁が結ばれているや絆があるという感性はこの自然との共生、人々との協働生活による調和の中から感性が磨かれてきたのです。天照大御神のときより共同していることを重んじるために永年実践してきた様々なまつり、稲作、暮らしの神事が今はものすごい勢いで消失してきています。
何を大切に生きてきたか、それがあったからこの気候風土の中で私たちは今まで生き残れてきたとも言えます。それを子孫へつなげないということは、この気候風土では長生きできなくなるということです。世界でもっとも自然災害を受けているこの国は、他の国のような暮らし方では通用しないから先祖はもっともその災害を通して学んだことを子孫へあらゆる暮らしの文化を通して遺してくださっているのです。
その思いやりはまるで父母の恩徳そのものです。
この父母の恩徳を感じ、それを継承することは自分がその父母の恩徳そのものになろうと実践することです。古民家再生は、家の再生ですが、家の再生とは父母との恩徳の再生でもあります。古民家の価値は、子ども達を思いやり続けた親祖父母の祈りや願いが籠っている暮らしの中にびっしり詰まって遺っています。まさに家の恩徳は父母の子どもを思う真心の結晶です。
末永く子ども達が安心してこの気候風土を楽園にしていつまでも仕合わせに生きていかれるようにと祈り、願う心のままに恩徳は今も息づいています。ひきつづき子ども第一義の理念を実践することで暮らしの再生を通じて伝承していきたいと思います。