先日、聴福庵の柱や天井をクルーと一緒にライスオイルを使って磨きました。磨けば磨くほどに木の木目が出てきて、すでに数百年経っている木の歴史や風格が顕れてきました。磨くことの面白さというものは、磨くと本質が顕れてくるということです。その本質は日頃は隠れていますが、磨くという行為を通して本質に近づいていくのです。これは私たちの人生体験にも言えるように思います。
例えば、古いものでもなんでも掃除をしなければくすんできます。そのものの色が分からなくなってきます。それを拭き掃除や掃き掃除を日々に行うことでそのものの色が浮き出てきます。これは個性も同じで、日々に掃除をしていくことで次第にそのものの個性が浮き出てきます。この浮き出たものは別になかったものが出てくるのではなく、あったものが改めて確認できるという具合です。これは温故知新とも言えます。つまりは、常に本質を顕し続けて怠らず磨き続けるということです。
本質が隠れてしまうからこそ、その本質のままに維持しようとする。これを初心を忘れないとも言います。人は別に何か心変わりしたから変わるわけではなく、本質を忘れてしまうから変わったと感じているだけなのです。
現に先ほどの数百年の木を磨けば、そのものの木目や年輪が出てくるのはその木がもともと持っていた本質が磨くことで思い出すのです。磨くということは言い換えるのなら「本質を磨く」ということです。磨くの陰には常に本質が隠れていて、本質的に生きている人は常に日々が磨かれているということです。
何のためにそれをやるのか、何のために生きるのか、そういうことを思い続けながら日々に生きているからこそその人は磨かれ温故知新して常に本質を維持していくことが出来ます。
磨くという実践は人生においては、自分らしく生きること、個性を活かすこと、そして目的を忘れずに本懐を遂げるためには何よりも大切な徳目なのでしょう。
引き続き、日々を磨くことを通して時代が変わっても世界が広がっても共通しているものを守り続けていきたいと思います。