古語に「若いときの苦労は買ってでもせよ」があります。これは意味として、若いときにする苦労は貴重な経験となって必ず将来の役に立つからということで使われます。言い換えるのなら、若い頃に楽をすれば必ずそれが将来の禍根になるということでもあります。苦しい体験や経験というものは、わざわざ自分から身銭をきってでも進んでやりたいと心から思えるかどうかがこの諺の妙味だと思います。
教育者の森信三さんに「同一のものでも、苦労して得たのでないと、その物の真の値打は分からない。」という言葉があります。
経験というものは、同じ体験をしたとしてもその体験を違う人が体験したらまったくその体験の質が異なるものです。問題意識の高い人は同じ体験をしてもその値打ちを知り深くその体験を味わい学びます。しかしその逆に体験を単なる出来事の一つだと思って日々を過ごしている人はその体験の値打ちが分からずそれを浅く受け取ってしまいます。
この体験というものは、自分から主体的に体験をする人と受け身で体験する人とでは質量は長い年月でものすごい差が産まれます。もしも若いときから、この体験がきっと同じ苦労をしている人の役に立つはずと自分を社會のために活かしたいと強く願い生きる人の体験は丸ごと同じ体験をする人たちの全てにお役立ちします。すると同じ体験であっても、その体験には数百人、数万人の人たちの代表として苦労するのですから体験は必ず将来同じような体験をする人たちの糧になり勇気になり、そして労いになります。
しかし体験を自分のことだと思い込み、自分の体験を自分だけのものと思って流していたらその苦労は本質的な苦労になることはありません。買ってでもせよという苦労とは先述した同じ体験をする人たちの役に立つための自ら苦労を選んでいく「救い」のある苦労なのです。
同じような体験をした人が必ずいるはずだから、その人たちのための「救い」に自分がなりたいと思う人はみんな苦労を自ら買っている人だと言えます。それを単に辛いのが嫌だからと苦労を避けて楽ばかりを選んでいたら救いにつながることはありません。先人の苦労が分かるようになってはじめて先人から救われたことに気づくのが人生ですから、先人たちの苦労にこそ私たちは感謝しなければなりません。
そして先人たちの徳業と同じくその苦労を買うというのは、その苦しんでいる人たちのために自ら実践を積んでいくことです。この実践とは、苦労を買っていることであり、自ら実践を増やし積み上げていく中に救いの手立てが活きているのです。
苦労を買うというのは、人々の救済のための「実践」するという人の道のことなのです。
森信三さんは「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。」と言います。
この野暮ったく泥臭いという言葉は、私は地道で少しずつ、そして継続が必要で根気強くということと同じように思います。つまり実践のことを言いますが、自ら誰かのためにと強く願い実践することはキレイごとでは片付きません。
まさにそれこそが「苦労を買ってでも」という意味に繋がっていると私は思います。
自分の人生は自分だけのものではなく、周りの御蔭様で活かされていると自覚するのなら周りのために自分の人生を役立てたいと願うものです。その時、自他一体の境地になり自分の人生は一切無駄がないということに気づけばおのずから苦労というものは値打ちがあると実感するのではないかと私は思います。
苦労を与えられる先生というのは素晴らしい方々です。私は自分が苦労するからどうしても同じような苦労をさせたくないと思ったりしますが、これは大きな考え違いであることに気づきます。自分の人生はきっと誰かの役に立つのだから苦労をするようにと言える真心をそのまま若い人たちに持てるよう自他を分けずに精進していきたいと思います。