文化の原点~祭り~

今年は会社に祭り部というものができて、最初の祭りをアイヌの祭りに参加することになりました。このアイヌというのは、私たち日本の先住民族であり日本全国の地名はアイヌ語からつくられたと言うほど各地はアイヌの歴史と繋がっています。

このアイヌ語というのは音を用いるため文字を使いません。口伝という伝承方法を使い代々子孫へと歴史が継承されていきます。私たちは一見、文字や文章の方が情報量があるように見えますが実際は文字や文章などは情報の一端でしかなく、直感や感覚によって得られる情報の方が膨大な情報を入手できるのです。

音を使って情報を感得するという仕組みは、原始的な能力ですが今では最先端の仕組みではないかと思います。私たちが古いと思っていることが実際は古くはなく、新しいと思っていることの方が未熟であるのはこれらの先住民族のもっていた智慧から学び直すことばかりだからです。

古来の人たちは、文章や文字の行間にある暗黙知を読み取ろうとなどいうことはしなかったように思います。分かれていない世界に住んでいた野生の感性は、何ものとも分かれておらず連続性を持っていたように思います。言い換えるのなら繋がっている存在のままに事物全体を掴みとっていました。この全体認識というものは分かれていないから直観するものであり、今のように分かれた時代においてはいよいよ摩訶不思議な能力に思えるのでしょうが自然はすべてこの中の存在なのです。

そう考えると今のようにいちいち思考を切り分けてしまうような境界線を持っている文字や文章では、かえって膨大な解説が必要になり全体認識においてはとても不便になってしまいます。だからこそ敢えて文字のような面倒なことは使わずに口伝や儀式、場による伝承ですべてを直感的に譲り渡してきたのでしょう。

例えば、日本の伝統的な家屋や行事、日本の古来からの稲作の仕組みは一緒に実践していくだけで先祖代々継承された文化的な要諦を全て暗黙知のままに伝承されます。それは伝える側に対して承る方は、「馴染む」ともいい、それは「コツを掴む」とも言います。これは暗黙知を得たということです。そこで暮らしているだけで自然に大切なことが伝承する、文字を持たない方が実は成熟した社會があり、文字を持つことに由ってかえって知識が必要になり私たちは本能的には退化したともいえるように思います。

野生というのは、知識を使わず智慧を用いるものです。智慧は文字や分析、境界などはなく本質を本質のままに維持するチカラです。動物たちや昆虫、野生の生き物はすべてにおいて栽培されたのではなく自然に具わった本能によって多様化を続けています。本質がすぐにズレて人間がおかしなことをするのはこの栽培用の知識が邪魔をしているからかもしれません。

そして今、深めている「場」というものはこの暗黙知を自然に感得する野生の直観場であると私は感じます。「場」には不思議なものがあるというのは、その場にいけば直観的に感得できるものがあるということです。よくパワースポットなどブームになっていますが、私に言わせれば「場」にいけば膨大な智慧を感受できる野生の直観が働くということです。野生の直観を思い出せば、自ずから私たちは先祖の個性に出会うのです。

だからこそ日本文化や先住民族の持つ歴史、文化は、その人々の「暮らし」の中に色濃く遺っています。そしてそれが文化の原点である「祭り」に顕れているのであり、祭りというものは音や踊り、仕草や儀式、全てを通してそのものと繋がるという野生の仕組みだからです。

今、西洋化して暮らしは変わってきましたがこの暮らしによって伝承されてきた暗黙知が次第に失われてきています。もっとも成熟した社會が古来から永く反映してきた循環型社會だったとすれば、今はその循環した仕組みをも捨てていこうとしています。

先祖たちが自らの体験で学んで子孫へと遺した神話や間違えないようにと暮らしを改善してきた智慧を、暮らしが変わってきたことで失っていることに私たちは気づかなければなりません。

日本人が個性を発揮して世の中で日本人らしく生きていくためにも、文化の中にある野生の直観を学び直す必要性を感じます。引き続き、アイヌの文化から日本の未来を感じ直してみたいと思います。