子どもはカムイ

アイヌ文化のことを深めていると、子どもに対する人類のかかわり方に普遍性を感じます。本来、人類は子どものことをどのように思っていたか。いや、すべての生き物は産まれたてのこどものいのちをどのように考えていたか、根源に思いを馳せればある共通のものが観えてきます。

日本には古来から「三つ子の魂百まで」という諺があります。三歳までは魂のままであり、魂がそのまま百まで生きるということです。西洋にもThe child is father of the manという諺があります。これは子どもは人類の親であるということです。

アイヌの長老は、「アイヌでは赤子はカムイなのだ」と語るそうです。

「よく赤子を観察してみなさい。赤子というのは、泣けばおっぱいがもらえる、泣けば寝かせてもらえる、泣けば抱っこしてもらえる。自分が何かして欲しいときには、言葉で意志を伝えるのではなく泣くことによって叶えてしまう。言葉がいらない存在。泣けば用が足りる存在なのは、神様以外には有り得ないのだ」(秋辺得平さんより)

その赤ちゃんは誰のものか、それは単に親のものではなく神様から預かった神様なのだからみんなのものであるとし、アイヌでは子どもはコタン(村)みんなで育てるとしました。これはすべての人類、先住民たちの共通の理念で常に共同体社會の中で子育てをし、子どもをみんなで見守ることで人類はいままで子孫を繋いできました。

今の時代のように、歪んだ個人主義が蔓延し子どもを自分のものだと勘違いし親だけに子どもを押し付けたり、誰かにお金を払って育ててもらったりなどはなく子どもは「人類みんなのもの」だったのだから社會で育てたのです。そして、他の生き物たちと同様に自然の中でいのち(子ども)は自然に育つものです。自然に育つのだから、自然に育つように見守り環境をととのえていくことで私たちはおもいやりの社會を築いてきたとも言えます。今はその自然が不自然になっているから、教育方法論ばかりが横行し古来からあった当たり前の普遍的な在り方が崩れてしまっているのです。

アイヌ民族の伝承のように赤子はカムイとして考えること、赤ちゃんこそ天から神様が私たちに与えてくださった至高至大の贈り物であり偉大な財産であるという認識があったからこそ私たちはみんなのものとして見守ろうとしたのかもしれません。

子どもが単に経済の道具や大人の都合で、少子化対策などと対処療法ばかりで乗り切ろうとしたらどうなるのか。人類は今まで大切に紡いできた先祖代々からの仕組みそのものを手放すことになります。子育ては社會を換える教育の初心を持っていますから、その初心に何を据え置くか、人類の先祖から学び直す必要性を感じています。もう一度、根元のところから私たちは社會の在り方を観直す時代に入っています。

引き続き、アイヌの口伝から永遠に生きのこる智慧を学び直したいと思います。