先日、べてるの家では自分たちの体験した病気がそのまま商売のカタチになっていました。同じように私の会社で行われている聴福という実践もまた自分の体験から産み出されたものです。
私は以前から思い込みが強く、理想の自分像というものに近づけるために他人の話をまったく聴かない人間でした。自分のこうありたいを頑固に他人に押し付けては、自分の理想を守るという勘違いをずっと行っていました。
今ではその理想を守ることが私利私欲で小欲そのものの自己満足であったことを自覚し、そのことから自分の他に理想を出す「理念」というものを持つ大切さを商売にしました。理念は大欲であり無欲ですから、小さな我慾を守るのではなく大きな理念を守ることで自分の思い込みを取り払い、周りへの思いやりや優しさを忘れないように自戒を籠めて理念を優先する実践を行ったのです。小さな欲は視野を狭くし大きな欲は理念に回帰しますから理念を常に優先することを大事にして視野を広くしたのです。
そして聴福というものも、自意識過剰で自分を気にするあまり心の余裕を失い他人の話をまったく受け容れなくなることで自分から仲間を断絶し周囲へ不信や疑念をまき散らし大切な人たちへの感謝を忘れてしまうため「聴く実践をする」ことを商売にしたのです。
他にも、自意識の感情に呑まれて何でも自分でできるようになることを優先し一人ぼっちになってしまい孤独が独善になってしまったことを悔い、コーポラティブアクティビティやその他の刷り込みを取り払う実践を商売にました。それに受信するばかりで発信を怠ることで一人で勝手に正解思考に陥らないように風通しをよくするために「ミッションページ」や「一円対話」などの周りと繋がり続けて自分勝手に自己満足に陥らないように商売にしているとも言えます。
自分の体験したことが誰かの役に立っている状態というのは、まさに自他一体であり、それは大欲であり無欲であり理念を実践していることと同じことです。自分が体験することがお役に立てる仕合せは、我慾を超越して理念を実践できる仕合せです。言い換えるのならもっとも理想の自分でいられているという証明なのです。
自分というもののこうありたいが単なる我慾であることに気づくのは、理念を理解するかどうかによります。理念が理解できないでいると全部のことを慾に換えてしまいます。人間が苦しむのも、自分自身との正直で素直な自分を取り戻せないからとも言えます。
弱さを受け容れることや弱さを発信することは、自分自身で歪んでしまっている自己認識を受け容れる行為のように思います。自分が間違っているかもしれないといつも周りに心を開き素直に聴くことは福に転じます。そしてきっと何か理由があるのかもしれないと相手に素直に意見を求め聴くこともまた福になります。
聴くことこそが福になった自分の人生の体験が、「聴福人」という現在です。素直に謙虚になれる人は感謝を忘れない人です。自戒としてまだまだ商売になっていない実践もありますが、それもまたいつかは乗り越えたとき商売になるかもしれません。
理念経営を行うということは、自我欲と理念の異なりを自覚しているかどうかは何よりも大切であろうと私は思います。
引き続き、自分の体験を全て丸ごと自然に誰かの役にたっているような万能薬になれるように自己と正対し理念に昇華する実践を積み重ねていきたいと思います。