生き物は植物に限らず、人間も自己修養することで成熟していくことができます。例えば稲でいえば、種を蒔き芽が出て花が咲き実がなります。それはすべてにおいて時期があります。
時機というものは、そのものが最も育っている時です。そしてその機は発達のタイミングのことです。花が咲く時機に花が咲かなくては実にまではなりません。その自然のサイクルに従って如何に育つか、それはそのものが素直に健全に実力をつけるために体験が必要なのです。
そして生き物は実をつけます、実をつけるというのは種になるということです。しかしその実が青いままでは収穫しても種にもならず食べることも出来ません。如何にその実が熟すのを待つか、それは時機を蓄えるということです。いくら結果を先に求めても、実力が備わるまでは青いままです。これを熟す前の状態、つまり未熟と言います。
未熟と言えばよく未熟者と言われ、愚か者や馬鹿者のように揶揄されますが本来はまだ熟するところまで来ていないというところなのです。
だからこそ熟すためには自己修養を続け、自分を磨き続け謙虚さを持てるよう人格を高めていくしかありません。そして陰徳を積んでは、その陰徳が蓄えられ陽報が訪れる時機をじっと待つのです。
自分磨きと言うのは、つまりは自分の感情に左右されずに初心を実践していくことです。自分で決めた方の生き方を、自我欲や感情に流されずに優先することができるようになるということです。
稲には、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という諺があります。成熟し完熟すればするほどに実がなります。実が種になり次世代へと繋がるのは、そのものの生が一生懸命に育ったことの証明でもあります。
人間は自分の代だけですべてが終わるわけではなく、必ず後人や後輩たち子どもたちがその後を続いていきますから自分の代でいい加減なことをすることはできません。引き続き、自己修養をして時機を待ち精進していきたいと思います。