御祭りの原点

かつて神話の中にあった御祭りに現代における御祭りの意味に通じるものを深めてみると色々と観えてくるものがあります。

御祭りの語源は、民俗学の折口信夫は「たてまつる」とし柳田国男は「まつらふ」としました。つまり「祭り」「祭る」の語幹である「まつ」と「待つ」がそのものであると二人は言いました。以前、京都の町家の主から祇園際のことをお聞きしたことがあります。その際お祭りはお祭りの前の夜こそが本当の御祭りであり心の穢れを祓い清め、神様が降臨されるのを籠ってじっと待つことこそが御祭りの本質だと伺いました。そして夜に待ちに待った神様が顕れたことを籠った方から外界の人々へと伝えると、「芽出度い!」と民衆たちが御祝いをしたのが今の御祭りの姿になっているということです。

籠って待ったものは目立ちませんから、その後の「御祝い」の方が御祭りとして目立ったということです。本来のお祭りはすべて神様が降臨するのを待つことであり、その待つ心の中に信仰の根源があるように私は思います。待つことは信じることであり、信じることが待つことですから「まつらう」ことも「たてまつる」こともこの「まつ」があってこそのものです。

そして神話の中で最初に御祭りしお待ちした有名な伝承神事はアメノウズメと神々による有名な天照大御神の「岩戸隠れ」の物語です。これは「天照大御神の弟である素戔嗚尊の傍若無人な振る舞いに天照大御神が天の岩戸の中に隠れ引きこもってしまいました。すると国中から光りが消えてしまいこれに困った八百万の神々はなんとかまた出てきてもらおうとあらゆる計画を立てました。彼らは岩の中の天照大御神の気を引こうと、鳥を鳴かせたり、鏡や勾玉を捧げたり、祝詞を読み上げたりといった宴会を行ない騒ぎ立てても一向にでてきません。そこでアメノウズメという女神が自ら全てをさらけ出し裸になってでも真心で舞を踊ったところ他の神々は大いに笑い心が開け明るくなりました。そして天照大御神が岩戸から顔を出し再び世界に光が戻った」という物語です。

これは私の解釈ですが、アメノウズメは禍を転じて福にした神です。世の中が暗く陰気に気枯れてしまってどうしようもないとき、和来い(笑い)によって人々の穢れを取り払い洗い清め福に転じたことで世の中が明るくなったということです。

この物語は日本の御祭りの原型を顕すものです。つまりは、「禍を転じて福にする」という御祭りの本義を示しています。私たち日本人はお天道様に恥ずかしくないようにと、清く明かるく美しく正直に思いやりをもって勇気を出して暮らしていくなかでどうしてもその気が弱っていくことがあります。その気をお祭りによって甦生し再生することでいつまでも神様の波長や波動に合わせて生きていこうとするのが御祭りの神事です。

こういう日本らしさというものは、自然の波長や波動、気候風土に沿って暮らしていこうとした先祖からの智慧の塊です。

引き続きお祭りを深めつつ、何を温故知新するか、何を復古創新するか、実践を積み重ねていきたいと思います。