時代は変わっていく中で、誰かがやらなければならないことがあります。その最初の誰かになるのは大変なことですが、その誰かはただ待っていても顕れませんから自分がやるしかありません。
人は主体的に生きるといっても、その根底には道徳がなければならないように思います。道徳がある人は、積極的な人生を送ります。なぜなら先ほどの誰もやらないのなら自分がやると決意して行動することができるからです。
これは強い意志と、行動力が必要です。それに義憤や大義、守ろうとする優しさや苦労よりも理想のためにと自分を尽くしていくことでもあります。
組織においても同じことが言えます。誰かがやるのをいつまでも待っている人、誰かがやるまで何もしない人、誰かがやっていても自分はいつまでもやらない人、つまり炭でいえばいつまでも不燃しない燻ったままの状態ということです。なぜここに火が入らないか、なぜ燃焼しないかはそうやって自分の大切な人生を誰か任せにして生きてきた生き方が染みついてしまっているからです。
学校に入り、エスカレーター式に言われた通りにやってきて評価されてくると自分は自分という考え方が刷り込まれたりします。自分ばかりを守ることに意識を使っていては、さきほどの理想のために自分を使おうという勇気が湧いてきません。
この時代、問題がたくさんあったとしても誰かがその最初の一歩を踏み出し扉を開けて風雨に晒される覚悟がなければ大事なものを守ることができません。その時代時代のそういう大義に生きた人たちの生き方のお陰様で私たちはその大義に触れて道徳に回帰します。
いくら大事だとわかっていても、守る力がなければそれは存続できません。みんな誰もが自分にはできないと思っているものですが、自分の意識の中で見過ごせないと思うものがあるのならば論語の「義を見てせざるは勇なきなり」と自己発奮、啓発して天から与えられた使命があると信じて挑戦することだと私は思います。
そういう日々の連続こそが子どもたちに遺し譲りたい生き方になり、その真心は必ず同じ大義を持つ仲間や同志へ伝承されていきます。
引き続き、社業をまい進し自他一体、道徳一致に取り組んでいきたいと思います。