経年変化したものに触れていると、味わい深さに心が感応します。この感応は何に感応するのか、それはそのものがいろいろな生の体験をすることで得た思い出を味わっているのです。
物には「物語」があります。本来、土や木、石や鉄だったものが人のチカラを借りて姿かたちを顕します。そして物にいのちが宿ります。そのいのちは、新しく生まれたての赤ちゃんだったものが多くの環境を通して様々なものと共鳴しあい、そして使い手との物語を経て、そして今に遺ります。
今、このブログを書いている机も百数十年前のものですがきっとこの机が生まれたときは別の人が大切に丁寧に使っていたのでしょう。それが親から子へと譲り渡され、その後多くのご縁をつたってきて今私の処に来ています。それまで愛され大事にされているから捨てられずに今でも残っているのであり、丁寧に大事に扱ってきたからこそ今でも十分機能してくれて私の思い出の手助けをしてくれています。
こうやって一緒に過ごしてきた思い出、主人を何人も換えて何世代も超えても生き続けてお役に立ち続けている存在。最初に作った人はどのような気持ちでこの机のいのちを吹き込んだのか、それを思うと心が感動して胸にこみ上げてくるものがあります。
大事に磨き、ありがとねと御礼をすると道具もまた会釈してくるかのような感覚があります。ものは決していのちがない存在ではなく、すべての道具にはいのちがあります。そのいのちは思い出という養分を吸い上げて愛をいっぱい授かって育ち成長し続けていきます。
まだまだ何かのお役に立てると信じていきているのだから、そのいのちを見極めいのちを活かすのが人間のお役目の一つです。引き続き、いのちを大切にしながらいっぱいの愛を込めて味わい深いいのちを子どもたちへ譲っていきたいと思います。