最弱最強

今回のシンガポール訪問でいろいろと国家の姿を学び直す機会になりました。シンガポールは一部の人たちからは独裁的だとかいろいろと言われていますが、実際に国民たちの満足度やその国民たちの生活度をみれば民度の高さを感じます。

多人種多文化多言語の人々が、同じ国の中で仲良く生活を営み共に尊重しあう姿は他を排斥しているようには見えません。そこで暮らす人たちがより良い暮らしを行えるようにすることは一家の主として当たり前のことです。

シンガポールは、国民に節約の習慣を持たせたり礼儀作法を身に着けるために規則や罰則なども設定しています。しかしよく考えてみれば、自分たちの国をみんなでよりよくし暮らしの質を高めていこうとするのなら一家の主と共に家人たちが身につけなければならない教養になるはずです。

よくシンガポールは国家を一つの企業に見立てて経営を行ったと評されますが、実際に建国したときの首相の初心は自分たちの家族が飢えず安心した住まいを持ち、質の高い生活ができるようにと祈り国家の運営を実践してきました。

国というと運営が難しいように見えますが、一家の運営をどうすればいいかと考えれば自ずからその国の形も観えてきます。未来に向けて自分たちがどのように生き残るかを考え、世界をよく洞察し自らの布置を予見し国家を導いたリーダーがいれば自ずから国家は豊かになっていきます。

改めて理念のあることの価値とその素晴らしさを実感しました。

私たちの会社も持ち味を活かし、シンガポールと同様に生き残っていかなければなりません。そのためには、戦略を持ち、その戦略が実行できる戦術を駆使して、未来の世界の中でどのような役割を果たすのかをしっかりと見据え実践躬行により自らを近づけていくしかありません。

大切なことは、その理念が向かう先に目指す理想があるということです。

シンガポールに来てみると、とても勇気と自信がわいています。アジアの小さな何もなかった国が、今ではこのような豊かさを持ちアジアの中での大きな役割を担っている。アジアの自信の一つになっていることを思えば、私たち日本も自分たちがアジアの大きな役割を担っているという自覚を持つ必要性を感じます。

私や会社も無名で何も国家全体の政治に影響を与えるほどのものではありません。しかし在野であっても志を持つ以上、子どもたちのために最善を尽くして最弱最強の一つのモデルを築き上げていきたいと思います。

国家の未来

シンガポールに来て国家の繁栄を洞察していると学ぶことがたくさんあります。初代首相リークアンユーがこの国の工業の発展についてインタビューされたとき「わが国は、このように小さくて資源が何もないんです。ですから外国からきていただいたり、 工業国家になる以外に生きていく道がなかったんです。 資源が何もないことが、ここまできた秘密なんです。」と言いました。

ないものねだりではなく、あるものを探す、そしてそこに知恵を働かせたということです。これは組織マネージメントにおいても同じことで、ないからできないのではなくないなかでも知恵を出すことをあるものを創出するという起業家精神があります。

自分の持ち味に特化するということは、このないものばかりを直そうやないものばかりを修正しようとする発想ではなく如何にある部分を捨てて全体の中で自分が活かせるものに特化するかということに似ています。つまりは、自分の欲望や都合を優先せずに全体の中で自分を如何に活用してもらえるか、そうやって生きてきたということです。

そして国家の形成は簡単に行ったのではなく、時間をかけてじっくりと行ってきました。そのことについてこういいます。「要は急がば回れだ。過去につちかってきた習慣や既得権を捨てたがる人はいない。ただ、一国として存続するには、ある種の特色、共通の国民性をもつ必要がある。圧力をかけると問題にぶつかる。だが、優しく、少しずつ働きかければ、同化はせずとも、やがて融合するのがものの道理だ。」

重心を低くし、理念に向かって実践していかなければ今のシンガポールはありません。多民族多言語多文化が融合するこの国家の発展と繁栄は、時間をかけてじっくりと包み込んできた政策が今にいたるように思います。

世界の中でのHUBを目指し、この国にどうやって来ていただくか、この国をどうやって活用していただくかと、考えて尽くしてきたからこそこの国にくる外国人は快適に過ごしこの国の利点を活かしほかの国々とのビジネスを成功させているように思います。

そしてこうも言います。「わが国は国粋主義になろうとする傾向に抵抗する必要がある。考え方も行動も国際的にならなければいけないのだ。外国に行かせたり、外国人と交流させたりして、世界レベルに追いつくように、わが国の人材を育てる必要がある。」

人材こそが最大の資源であるとし、国防費の次に教育費をあてるほど人材育成に力を注ぎます。国家が何を優先しているのかを観ればその国の理念が観えてきます。この先は中国が台頭し、アジアは中国を中心にビジネスを展開することになっていきます。その時、必要なのはそのネットワークを駆使して如何にこのアジアでの自分の役割を担い活かすかということになってきます。

少し先の未来を予見しても、急速な少子高齢化の人語減の日本の未来においてこれからどのように私たちは多民族間と調和しいけばいいかシンガポールから学ぶことが多くあります。

引き続き、子どもたちのためにも未来のために今できることを学び直して遺して譲っていきたいと思います。

国家の理念

シンガポールに来て学校をはじめ様々な生活を観察していると直観するものがあります。それは理念があるということです。理念がある中で働く人たちや、理念が明確になっている中で動く人たちには活気があり、さらにどのように自分たちが行動し考えればいいのかがわかります。この淡路島ほどの小さな島が、この50年でここまで発展を遂げたのは初代首相リー・クアンユーの理念がはっきりと現れたということです。

シンガポールは歴史を振り返れば太平洋戦争のあとから食住もままならないほど貧困を体験し、その後、先進国の仲間入りを果たすまで様々なことを学び取り入れてきました。今では一人当たりのGDPも日本を抜きました。その改革の手法から周りからは独裁者だとののしられながらも、「志を持てば人気取りなど必要ない」と喝破し自ら理想の国家を実現するために今まで迫害を受けた国家からも学び、様々なことを融和していきました。

昨日から混ざり合うことを書いていますが、この混ざるには矛盾を受け容れた両義性のようなもの必要になります。その両義性は両義性をみても理解できるものではなく、矛盾を受け容れるには理念が必要なのです。

私も理念の仕事をしていてすぐにわかるのですが、多様な価値観を受け容れ、多様な文化多人種を融和していくには人々が納得するような確固とした理念が必要です。理念があるからこそこの国家がどのようにこれから発展していくかもわかりますし、リーダーが理念を実践するから国民もまたそれについていくのです。

私が視察する中でいつも大事にするのは、目に見えない部分をいかに観るかということです。それは人々の発言の中にどれだけ理念が浸透しているかを観ているのです。どんな組織であれ、普通といわれる常識を壊し、新しい常識をつくっていくのは理念を実現しようと実践していく人たちの揺るがない信念と忍耐です。

そういうものがある国家には、その理念を尊重して一緒に理念と共に生きる仲間が生まれます。国家運営においても、組織運営においても、その根本は常に普遍的な理念によるものだと私は思います。

シンガポールはこのまま、どんな時代の中にあっても国民を守ろうという意思を持ち理念が実践されていくように感じました。様々な問題はそれを実現するための一つの課題でしかなく、問題はすべて変革ための善いことになりますからこの先もまた新しいシンガポールを築いていくように私は思います。

日本を祈ると、日本はどのような理念でこの先の未来を築くのでしょうか。

先史先祖から連綿と紬ぎ繋いできたものを私たちはきちんと受け取りそれを日本の人々と一緒に実現していく必要を感じています。そのためには日本人の一人一人が魂の目覚めのような気付きを自覚する必要を感じます。天皇がいて、理念を守ってくださっていますから私たちは気づくかどうかを問われています。

最後に、シンガポール初代首相リー・クアンユーの言葉です。

「後悔はない。私の人生のほぼ全てをこの国をつくりあげることに使った。それ以外に私がする必要のあることなどなかった。私が最後に得たものは何か。成功したシンガポールだ。私が捨てなければならなかったものは何か。私の人生だ。」

理念に生きる人があって今の現実がある、どう生きるか、その生き方が未来ですから未来のために生き方を見つめて生き方を見直して生き方を変えていきたいと思います。

時代の予見

シンガポールにてイングリッシュスクールや大学、学生寮やホームステイ先を見学する機会がありました。ここはアジアのあらゆるところから人が集まり、学校で英語をはじめ様々な技術を学んでいます。

昨日訪問した学校などはすべてアジア各国の多種多様な文化を持つ子どもたちが、共同生活を通して学びあっていました。日本人はとても少なく、こういう環境の中でこれからは時代がさらに人類の原点回帰に動いていくのではないかとも直観しました。

人は国の違いではなく、価値観の違いというものにもっとも影響を受けるものです。国が違っても価値観が同じであれば安心しますし、もしもあまりにも価値観が異なればその中でどう折り合いをつけるかを話し合う必要が出てきます。この折り合いをつけるチカラがこれからは必須の能力であり、そのためには人間性としての素直さや正直さ、さらには柔軟性が必要になります。それは別に「どうでもいい」といういい加減な態度ではなく、「それもいい」というような好い加減が必要になります。似て非なるものの中には相手を深く尊重し尊敬できる人物かどうかが大事になるのです。

オランダで学んだ時もそうでしたが、如何に寛容の精神を持ちすべてを受け容れつつも自分自身をしっかりと立てることができるかはこれからの自立と共生において求められている大切なスキルになります。ビジネスマンに限らず、あらゆる職種の人たちは多様な価値観が混ざり合うこの時代には国際人としての感覚が必要になると私は思います。国際人の私の定義は、徳の人物ということです。孔子はこれを君子といい、政治の根本を語りましたが2500年を経ても普遍的な真理はいよいよ過渡期を迎えているように感じます。

そういう意味において、この海溝都市のシンガポールは交流する強みを活かしてあらゆる人種を受け容れる教育を先に進めていたことになります。教育とは時代の先を読んだものでなければ今に合致しませんから今のシンガポールはもうすでに数十年先にこの時代を予見していたということです。

そのシンガポールも今は、国際バカロレアにあったように能動的学びの必要性を感じ教育の舵を大きく切っています。これから求められる人材はこれからの時代に必要な人材のことです。ここから何を予見するかと顧みると今までの一つの価値観の押し付けをやめて、多様な価値観を受け容れる教育へと変わったということです。

それはつまり、多文化多言語多人種が混ざり合う世界への変遷です。

混然一体になりながらも、理念や信念を守り大事なことを貫ける人物。あらゆる価値観がぶつかり合い人間関係が混雑してもその中で自分自身の個性を発揮できる人物。さらには、それぞれの持ち味を活かせるような環境を用意して調和を保ち協働で思いやる関係を築ける人物がこの先の時代のリーダーになるということでしょう。

教育は常に今の時代から予見できるものを準備しなければなりません。だからこそその仕事に携わる人たちは、常に今の状況を深く洞察しそこから自分自身を変え続けて変化を先取りしていく必要があります。

アメリカGEのジャック・ウェルチが「Change before You have to!」と言いましたが、変革を迫られるまえに変革することこそがもっとも先取りする方法だと私も思います。挑戦者は常に時代の先を支えています。変化しなければならないという消極的な姿勢よりも、好奇心をもってどんどん変わっていこうとすることが人間本来の変化の源泉だと思います。

引き続き、混ざり合うものを感じつつ変化を楽しんでいきたいと思います。

 

 

混ざり合うこと

昨日からシンガポールに来ています。前回の教育視察を経て、今回はより具体的に学校内部の生活や寮、そのほか留学生たちの状況、さまざまなことを深められると思います。

シンガポールは、中国系、マレー系、インド系、その他、町に出てみればすぐにわかりますがここは非常に多くの多国籍の人たちが暮らしています。日本のような島国はあまりそう外国人が多いというイメージはありませんが、このシンガポールはいつも様々な人々が混ざり合っている感じがします。

私がこの国に最初に興味を持ったのは、10年ほど前にブルーオーシャン戦略の講演で来日したチャン・キム教授がこのシンガポールは国家としてこの戦略を取り入れているという話でした。大きさ的には東京23区ほどの広さしかなく、資源も乏しいこの国は自分たちの持ち味に特化することでアジアの優等生と呼ばれるほどの経済大国になり、今の立ち位置を手に入れました。

確かにいろいろな人たちがここを出入りし、様々な国へと移動していきます。HUBとしての要素は非常に強く、以前訪問したオランダにも通じるところがあります。自分を通過してそれを混ぜていくという文化は、寛容さが必要です。一つの価値観だけで縛りその価値観のみを強烈に押し付けるという文化ではこの混ざり合うことができなくなります。

私はこれからの時代は、より多国籍他民族が混然と一体になっていくように思います。ボーダーレス、国境のない世界になればなるほどにあらゆる価値観を受け容れて人類共通の大きなビジョンに導く人々が世界をつなぎなおしていきます。

そのためには、一円融合といって「とらわれない・こだわらない・こしつしない」といった融通無碍の境地を持った人たちが、それぞれの持ち味を発揮していく環境を用意して人々の善きところを引き出してそれを合わせることができるように導かなければなりません。

これからの教育においては、まさにそのような混然一体の中で一円融合しつつ理念を優先できるような人材が必要だと私は思います。混ざれない人というのは自分や自我を優先して周りを変化させようとする我儘な人です。自然界は混ざっていないものなど一つもなく、すべての存在は混ざることで成り立っているのです。

自分ばかりを優先しては混ざろうとしないでは、とても一円融合し融通無碍になっているわけではありません。自分よりも理念が優先できる人はどんなものでも混ざっていけます。

言い換えるのなら「これはこれでいい」とその時々の今を、すべて最幸だと受け容れる感性を持つということです。今が幸せな人は、どんなものとも混ざっていけますが今が不幸だと思っている人は何にも混ざれません。

人生は天にお任せし、天命を信じ来たものを選ばず人事を尽くしているからこそ何があっても好いことだと転じられるように思います。私にとっての混ぜていいくのは転じ続けていくことと同じです。

この国から日本を顧みて、改めてこれからの教育の方向性を確認していきたいと思います。

 

失われた文化

昨日は古民家の床材を古材でリメイクするために古材屋さんの工場に大工の棟梁とお伺いしてきました。そこには長くて百数十年前から数十年前の古材があり、解体されたものが集まってきていました。本来は捨てていくようなものを拾い集めて再利用していくということはいまは失われた文化だとも言えます。

かつて日本の先祖たちはものを大切に最後まで使い切っていました。それは捨てない文化だったともいえます。今では捨てる文化が広がり、捨てること前提で作られたものはすぐに壊れてしまいます。

昔のように末永く使うだろうと思い素材から吟味し大事につくるという文化は廃れ、大量生産大量消費の中で便利に使えて安く交換できるようなものが蔓延しました。同時に捨てる文化が広がり、捨てない文化がなくなりました。

自然からいただいたものだからこそ大事に使い切るという発想は、いのちをいただくのだからそのいのちを使い切るという発想から来ています。樹齢数百年の樹木を切り倒しそれを木材にし、建築をする。その木材になったいのちをどれだけ大切に扱ったか、そこに自然と共生していく思想があります。

今では解体屋がきては、ものの数日ですべてを破壊し焼却しますがそれまでのいのちはいともたやすく捨てられます。いのちが大切にされない時代だからこそ、心が病んでいる人がふえたようにも思います。

使い捨てというのは、自分の利用価値がなくなれば価値がないという考えから来ています。いまの時代はもったいないという言葉の意味も、単に自分にとっての損得の基準で使われるようになってきました。本来のもったいないは、いのちを使い切っていないのだからまだまだ活かせるという意味でもったいないと感じたように思います。他にももったいないには、自分の損得を超えていただいたご縁のことや、一期一会に形を変えてはお役にたっている尊い姿にもったいないと感じていたはずです。

昨日の古材屋さんが古材が集まらないと嘆いていたのは、それだけ古いものの価値が捨てられていることが進んでいるということでもあります。昔の家屋は先祖たちが子孫のことを慮り、立派な梁や柱を用意し、それを解体し組みなおして温故知新して代々の子孫へと継承していき命をつないでいきました。

この子孫繁栄の仕組みと人類の発展の原点、それを忘れてしまった人類は少子高齢化の中で大事なものを捨てていることにそろそろ気づいてくると思います。

改めて、今の人々が捨てていくものを拾うという発想が必要だと思います。それは捨てていく文化の中でもっとも大切なものを拾い続けるという意味です。

引き続き復古創新を学び直していきたいと思います。

自然の時機(一期一会)

昨日は自然農の畑に、今年に入って2度目の妙見高菜の種を蒔きました。1度目は9月初めに蒔いたのですが、5年目ではじめて新芽がすべて虫にたべられてしまいました。今までは蒔いても虫に全部を食べられるほどはなく、間引くほどでしたが今回はほとんどすべてきれいに食べられてしまいました。

自然というものはタイミングがあり、種を蒔く時期を間違えると芽が出ることがありません。種の方も自然の時機を見定めていて、ちゃんと実をつけて種になるためには遅すぎては結実しないのを知っているのです。しかし今度は早すぎると、新しい季節の生き物と同じタイミングで共生するよりもその前の季節に生きていた生き物たちの餌になってしまいます。早すぎてもダメで遅すぎてもダメ、このタイミングがぴったり(一期一会)というものが自然界では何よりも生き残る智慧そのものなのです。

今回は、例年に合わせて蒔き時を9月初旬にしましたがすべて虫がたべました。もういちど畑に出てよく自然を観察してみたら思うことがありました。今年は台風が何度も福岡の周辺を通過しています。現在も、福岡の北部、韓国の一部に台風が入っています。

これは北の寒気が弱く、南の温気が強く、そのため台風がここまで入ってくるのです。台風というものは、日本の最南端さらに下でいくつも発生しています。報道では日本にかかるものしかニュースになりませんが、実際は今年もすでに18号なので18回台風が発生しています。

その中でこの時期になるまで台風が福岡の北にあるのは、温暖な気候がまだまだ強い証拠です。

そう考えてみると、今までの暦通りの種まきでは早すぎる可能性もあります。本来はいなくなっているはずの虫たちが、季節のめぐりに沿って生き残っています。そうなると本来、食べられないはずのものがたべられることもあります。しかしこれもまた自然の一部を少し観察しただけで宇宙地球自然全体ではもっと大きなめぐりや循環が行われているのです。

私たちは知識の刷り込みで、スケジュールや時期、タイミングを頭で考えてはその通りにいくかのように錯覚します。しかし自然は頭で考えている通りでもなく、自分の目と手、そして心、その五感のすべてで観察し直観しなければ自然に近づくこともありません。

自然を観察してみたら、何が起きているのかがなんとなく直観できるのは今まで長い年月をかけて私たちは自然に寄り添い自然と共に生きて暮らしてきたからです。この数千年、いやこの数十年で私たちの暮らしは一変し、頭で考えた通りのことの方が常識になりいつも人間の都合で世界が動くように錯覚し刷り込まれました。

自然の畑に出てみればそういうものは一瞬で崩れ去ります。考えていたことがほとんど勘違いだったと気づき、すぐに自分を修正していくしかありません。変化というものは、まず変わらない普遍的な自然がありその自然からズレた自分自身を換えていくことを言います。

世の中のすべては宇宙の運行、自然の摂理、太古から続く大道によって営まれていますから目先のちょっとしたらことだけをコントロールした気になったとしてもそれはまったくの勘違いで私たちは無理に思い込み刷り込んでいるだけだということでしょう。

自然をもっとよく観て、自然から学び、分かった気にならないように自戒し、妙見高菜と一緒に生き方と働き方を変革していきたいと思います。

家生~主家一体~

古民家再生をはじめてから慣れない大工作業で、身体中のあちこちが筋肉痛や傷だらけです。自然農の方は畑にいけなくなった分、目が行き届かずなんとか実るものもありますがやはり手入れ心配りが足りない分、畑の作物たちも寂しそうです。

昨日は床下に合計1200キロの備長炭の敷き詰めが終了しました。また水晶のかけらも15キロほど撒いています。そのほか、外壁のベンガラ塗装や、家の中のあらゆる建具の修理、また押入れ内の補修など、漆喰やヒバ油によるメンテナンスを含めるときりがありません。

この4月からはじまった古民家再生は、有り難いことにかなりの速度で仕上がってきています。まるでこの後に何かが起こることを予感させ、そのためにタイミングが合っているかのような感触があります。

家が喜ぶかといったテーマは、昨年島根石見銀山にある220年の他郷阿部家からいただいた命題でもあります。あのご縁から約1年で、ここまでいろいろな学びがあったものだと感慨深く思います。

今では御蔭様をもって頭で考えていた家が喜ぶというよりも、実感として家が喜ぶのを感じます。家は単なる建物ではなく人と共に生きているものですから、家が喜ぶのはそこに人が住むからです。この住むというのは、もちろん暮らしのことですがこの字は分解すると「主人」と書きます。つまり家に住むということにおいて何よりも大切なのは一家のあるじ、つまり主人がいるということです。

主人がいる家というのは、その主人の人格が家に現れてきます。どんな主人がどんな理念でその一家を纏めているかは家を観れば一目でわかります。家にはその主人の個性が出てきて、一家の人々の持ち味が和合しその家の暮らしにおいて家を飾り立てていきます。

家は主人次第でどうにでも変化しますが、主人のいない家の寂しさといえば悲しいものです。ちょうど隣家も同じくらいの古い古民家ですが、もう10年以上誰も住んでいません。人が住まない家はあっという間に傷んで壊れてしまいます。雨漏りがはじまり、あちこちが腐り始め、そして雑草に覆われ朽ちていきます。何とかしたいと思いますが今はまだどうにもできません。主人が現れるのをじっと待つ家には、その時を耐え忍ぶ姿が見えます。

なぜ家が人間の寿命よりも長生きするのか、それはその家に主人が居続けているからです。主人が暮らした家が、その家の寿命ですから代々の主人がその家に現れれば家が喜ぶのです。そして主人が大切にしてくれる人であればあるほどに家は新しい主人とご縁を結びその家生を喜びます。

家とは、生物にとって主家一体のものです。

人間の寿命よりも長い生き物たちには、その生命において仕えている主人があるということです。私たちはこの本質を見誤ってはならないように私はおもいます。私が実践する初心伝承も、理念継承も、風土文化育成においてもすべてはこの仕事に懸っています。

引き続き古民家再生を通して、子どもに譲り遺したい生き方と働き方の一致を深めていきたいと思います。

 

 

 

和やかさとは何か

人は和やかさというものを感じるようにできているものです。例えば、一つ一つ手作業で作られたものには和やかさがあります。また料理一つでも、丁寧に丹精を込めて作ったものにも円やかさや和やかさを感じます。

大量生産で機械で製造したもには、その和やかさというものがありません。不思議なことですが、この和やかさは私たちは無機物にかかわらず有機物にいたるまですべてこれを直観できるようになっています。

この和やかとは何か、それを少し深めてみようと思います。

この和やかさとは私の定義では、仲が善いということです。つまりは仲睦まじい姿を見ると私たちはそこに調和を感じます。争わず競わず、お互いに和している姿にわたしたちは和やかさを感じています。

手作業で手入れするものがなぜ和やかに感じるのか、それは素材と対話し、素材をどのように活かせばいいか、お互いに対話をしながら丁寧にお互いに作り上げていくからです。これはモノづくりでも料理でも同じで、そのものの素材を大事にすればするほどにお互いに活かしあおうとします。それを人々は和やかであると感じるのです。これは人間関係も同じで、一人ひとりを尊重しお互いの持ち味を活かしあう仲間同士はとても和やかな雰囲気が出ています。

しかしこの逆に、素材を無視し一方的に作り手の都合で作られたものは不調和な感じがして和やかさは感じません。和の反対語は、戦や差という言葉もあります。お互いに仲が悪くなり持ち味を活かさず一斉画一に単なる物のように扱われるとそこには不和が発生します。

不和なものに囲まれていきていると、次第にその不和の雰囲気が感性を鈍らせていきます。自然というものはみんな調和しています。なぜならお互いに持ち味を活かしては争わないからです。お互いの特性を活かしながら、お互いが助け合っていきています。食べ食べられるものも、本来は助け合っているのであり争っているのではありません。

私たちはこの「和」の心を何よりも大切に生きていくように親祖、天照大神のときよりずっと重んじてきました。そこには素材を大事にするように、仲睦まじくお互いの特性を活かすようにと理念が働いていました。

今は経済重視で大量生産大量消費の中で、その大事にしてきた理念から遠ざかっているように感じます、もういちど、私たちが永い時間親しんできたこの「和」の理念を取り戻す必要があるように感じます。

そのためにも日ごろから持ち味を活かす、個性を伸ばす、異なりを味わうといった実践が必要だと感じます。和やかに生きていけるよう、世の中の刷り込みを取り払っていきたいと思います。

先生とは

昨日は、コンサルティングに入っているある高校のクラスの一円対話を見学する機会がありました。そのクラスは入学当初より、一人ひとりが初心を定めそれを振り返り共に一円対話を通して目的に向かって協力し助け合うという目標を掲げて実践の日々を過ごしています。

毎月実施される一円対話に参加して見学していると、生徒たち一人ひとりが自分の初心を振り返り内省し改善することをしつつも、クラス全員のために自分が何ができるかとそれぞれが考えとても仲が良いクラスになっています。

この仲が良いクラスというものは、単に相性のいい人だけが集まったクラスというわけではありません。一人一人がいつも全体のことを慮り、みんなと仲良くなろうと助け合い協力する風土や文化を作る一人になっているということです。

実際に昨日のアクティビティの様子を見ていたら、日ごろの声掛けがいかに好いのかを垣間見る機会になりました。みんなで息を合わせて声をかけ、協力しあう雰囲気をすぐに出してきます。助け合うことや協力すること、認め合いみんなで挑戦していこうとする気風が土台にちゃんと入っていました。

子どもたちからチームワークとは何か、協働とは何か、信じあうとは、助け合うとは、そういうものを学び直す一日になりました。

先生という職業はどうしても子どもを子どもだと思ってしまうものです。知識が多く教える仕事だからかどうしても自分が上になってしまいます。経験が多いことは確かに素晴らしいことですが、だからといって子どもに対して教える側ではありません。

最初は一円対話を通して子どもたちが変わっていくのを観ていましたが、今は子どもたちが変わっていく姿に私自身が学ぶことばかりです。このタイミングでこういう機会を得られたこと、本当にありがたく思います。初心や理念、今私たちが実践していることが確証された現場を子どもたちが証明してくれています。

私たちは姿勢として、教えてもらう側や教える側のどちらかになってしまってはならと私は思います。どんなことも自分の先生だとしたら、「先生」の定義が全く異なってしまいます。そうやって学ぶというのは、いつまでも学び続けるということ、いつまでも聴き続けること、いつまでも本質でい続けるということです。

本当の勉強は、お互いの気づきを気づきあい、そこからどれだけのことを学び直し自分をまた新たに刷新していく日々を送るということです。

それが日々の青春をし、日々の充実を与えてくれます。

子どもたちから真摯に学び、仲の良いクラス、仲が好い助け合い、仲が善い思いやりをその仲の楽しさをしっかりと見守り学び続けていきたいと思います。