先日、聴福庵の110年の傾きを直しましたが様々なドラマがありました。新しい道具はほとんど役に立たず、昔の引退した道具たちを探して古民家を立て直していきました。また年季の入った道具たちを使うのは、年季の入った年輩の職人さんたちです。紳士的な人たちが、家のあちこちを手触りで感覚で掴みつつ力を合わせて直してくださいました。
今の道具は、ほとんどが作ることと壊すことのためだけに用意されています。そこには修理や修繕をするような昔の知恵でつくられたものがほとんどが引退して古い道具もそれを使う知恵も一緒に失われてきています。
有り難いことに今回は、その昔の道具が大切に保存されていた職人さんからお借りできその道具の使い方を知った職人さんの御蔭で立て直せたのです。
ここから私は古いと新しいということの本質を学び直しました。単に時間的経過で古い新しいで使うときの新しいというものと、普遍的な価値で古い新しいというのはまったく意味が異なります。前者の新しいは古いものを否定する新しさであり、後者の新しいは普遍的なものをいつまでも維持する新しさであるということです。
時間的な経過で古いものを新しくしたからといってその新しいはいつの時代も普遍的な価値を持つものではありません。そんな新しいものに飛びついていたら古いものは否定され何も残らなくなります。ごみのように捨てられていく古いものというものは、それは単なる劣化であり価値はありません。そんな古い新しいには時代を生き残る本質は維持できませんから、新しさを追えば追うほどに普遍的価値は消えていきます。
しかし普遍的価値をいつまでも維持するために、古いものを新しくするというのは温故知新の本質でありその時の新しいというのは普遍的価値を守ったということです。普遍的価値を守るためにどのような道具を維持していけばいいか、どのような生き方を保持すればいいか、それは普遍的価値にあわせて時代の変化と共に自分自身を変化させていく新しさというものがあります。
古いか新しいかという言葉だけでは、単に時間的なものだけを考えて自分を換えようとしない人が多くいます。実際には、普遍的価値を保つためには常に自分自身が普遍的な価値を維持するために時代の潮流や環境をよく学び直し、いつまでもなくしてはならないものを守るために様々な変化に合わせて改善していくことが新しくするということなのです。
日々というものは、油断をするとあっという間に風化していくものです。それが風化しないようによく手入れをし、よく磨き、そのものが大事に守られるように外側からやってくる普遍的価値を崩し壊すような人間の欲をよく制御し、自我欲に打ち克ち、本来のあるべき姿を守り通していくことが真に「新しい」ということなのです。
古い道具を用い、古い職人さんたちが、古民家を直す姿に私は普遍的新しさを垣間見ることができました。伊勢神宮の式年遷宮然り、法隆寺大工の改修然り、その人物と技術、道具の中には永遠に新しさを放ち続ける普遍的新しさがあるのです。
今回の学びから、何を守り、何を新しくすればいいかを学び直しました。
社業につとめ、子どもたちにその本質を譲り渡していきたいと思います。