古民家再生をはじめてから慣れない大工作業で、身体中のあちこちが筋肉痛や傷だらけです。自然農の方は畑にいけなくなった分、目が行き届かずなんとか実るものもありますがやはり手入れ心配りが足りない分、畑の作物たちも寂しそうです。
昨日は床下に合計1200キロの備長炭の敷き詰めが終了しました。また水晶のかけらも15キロほど撒いています。そのほか、外壁のベンガラ塗装や、家の中のあらゆる建具の修理、また押入れ内の補修など、漆喰やヒバ油によるメンテナンスを含めるときりがありません。
この4月からはじまった古民家再生は、有り難いことにかなりの速度で仕上がってきています。まるでこの後に何かが起こることを予感させ、そのためにタイミングが合っているかのような感触があります。
家が喜ぶかといったテーマは、昨年島根石見銀山にある220年の他郷阿部家からいただいた命題でもあります。あのご縁から約1年で、ここまでいろいろな学びがあったものだと感慨深く思います。
今では御蔭様をもって頭で考えていた家が喜ぶというよりも、実感として家が喜ぶのを感じます。家は単なる建物ではなく人と共に生きているものですから、家が喜ぶのはそこに人が住むからです。この住むというのは、もちろん暮らしのことですがこの字は分解すると「主人」と書きます。つまり家に住むということにおいて何よりも大切なのは一家のあるじ、つまり主人がいるということです。
主人がいる家というのは、その主人の人格が家に現れてきます。どんな主人がどんな理念でその一家を纏めているかは家を観れば一目でわかります。家にはその主人の個性が出てきて、一家の人々の持ち味が和合しその家の暮らしにおいて家を飾り立てていきます。
家は主人次第でどうにでも変化しますが、主人のいない家の寂しさといえば悲しいものです。ちょうど隣家も同じくらいの古い古民家ですが、もう10年以上誰も住んでいません。人が住まない家はあっという間に傷んで壊れてしまいます。雨漏りがはじまり、あちこちが腐り始め、そして雑草に覆われ朽ちていきます。何とかしたいと思いますが今はまだどうにもできません。主人が現れるのをじっと待つ家には、その時を耐え忍ぶ姿が見えます。
なぜ家が人間の寿命よりも長生きするのか、それはその家に主人が居続けているからです。主人が暮らした家が、その家の寿命ですから代々の主人がその家に現れれば家が喜ぶのです。そして主人が大切にしてくれる人であればあるほどに家は新しい主人とご縁を結びその家生を喜びます。
家とは、生物にとって主家一体のものです。
人間の寿命よりも長い生き物たちには、その生命において仕えている主人があるということです。私たちはこの本質を見誤ってはならないように私はおもいます。私が実践する初心伝承も、理念継承も、風土文化育成においてもすべてはこの仕事に懸っています。
引き続き古民家再生を通して、子どもに譲り遺したい生き方と働き方の一致を深めていきたいと思います。