大切なものを守る人々

昨日は秩父神社に訪問し権宮司さまから祭礼についてのお話をお伺いすることができました。秩父という地域は、とても神社と氏子たちとの絆も強く、様々な祭りや地域活動が今でも大切に実践されています。長い時間をかけて経てきたその地域の真心の伝承は今でも色濃く残っている風土美を持っている地域とも言えます。

自分がその土地に有難く住まわせていただいているという感謝の気持ちをいつまでも忘れず、神様に対して畏敬敬虔の念でその初心を守ろうとする宮司と氏子たちによって大切な文化が守られていることに感銘と感動を受けました。これは本来は当たり前だった日本の真心ですが秩父神社のその深さと質に偉大な歴史と伝統を感じたからです。

今の時代は、かつての日本人としての徳目実践を怠る人たちが増え先祖たちがなぜこれを続けてきたのか、何のためにやるのかということを考えず、ただ形だけを見てはなんとなく意味も分からず続けているような事物が増えてきているように思います。何かが行われるのはその理由が存在し、その理由を忘れずに実践を続ける人たちによって理念や初心といった物事の本質や「いのち」はいつまでも活き活きと甦り続けて生き続けます。

しかしそれを忘れてしまい、本質からズレたことをはじめてしまうと途端に本物ではなくなり現実味が消失していきます。私たちは常に理念や初心というものを扱っている自覚、つまりはいのちをそのまま扱っているという自覚がなければそのいのちは消えてしまうのです。

よく考えてみると、そこに神様がいらっしゃると慎み過ごすことや、そこに神様の導きが入っていると感謝すること、そこに神様がご鎮座してくださっていると畏れ敬うことは自分自身の姿勢が決めるものです。自分自身がそういうものであると心の中で決めて、そのために自分の都合や自分が優先されないようにと自戒をし実践を怠らないからこそ神様が観えていきます。自分自身の方がズレていることにも気づかず、自分の都合で物事を動かすほど不敬虔なことはありません。

神様が次第に観えていくということは、自分が神様にどれだけ真摯に仕えるかということであってその仕え方によって神様は顕現しそのいのちが次第に観えてくるということでしょう。そして自分自身の心の姿勢が真摯に実践を伴い想念が磨かれ澄まされなければ何も観えることもないのです。

例えば、家の道具一つにしても道具というのは人生の道を助けてくれるものだからこそ道具とし昔の先祖たちは大切にそのいのちを壊さないようにと丁寧に扱ってくれていました。こちらが道具をただのモノのように扱い使い捨てばかりしていたら単なるモノになってしまいます。物を大切に扱い、物の御蔭様で助かっていると感謝の心があればその物は語り始めその物との関係性が築かれお互いの物語(いのちのつながり)が発生してきます。

これと同じく、自分自身の実践する姿勢が全体の世界観を決めていくのが「生き方」でもあります。神社や宮司の生き方や、そこに仕える氏子たちの生き方は実践に現れてきます。秩父神社にかかわる方々の実践をお聴きしていると、日本の原点を感じ、また日本人らしさを感じ、さらにはその生き方をしている方々に誇りを感じます。

自分たちが誇らしいと思えることこそ本来の自信であり、そこが地域の最大の魅力になります。自分たちの魅力が減退するのは、理念を蔑ろにし実践を怠るからです。そうしているうちに地域の魅力が消失していくのです。大切なものを守ろうする人々の真心に触れて、改めて自分自身が取り組んでいることの意味を学び直しました。

今回のご縁で自分たちが実践するということの意味、理念を大切に本物を譲り遺していくことの意味を深く感じ取りました。私の信じる神社のかたちもはっきりと再確認でき、有り難い思いでいっぱいです。今、実践をさせていただていること、それを深め積み重ねながら沢山の方々のつながりとご縁、そのすべてに感謝しながら子供第一義の理念を丹精を込めて今日も実践していきたいと思います。

色々とご教授いただき感謝しています、引き続き御恩返しの実践をしご報告していきたいと思います。