歳月の真価

聴福庵の近くで解体している古民家の中には、樹齢数百年の松材が使われていました。梁についてはとても立派で大きく、美しい光を放っていました。これもまたあと数日で跡形もなく壊され捨てられていきます。

もしも今、この松材を手に入れようと思ったら工場で人工的につくる鉄やプラスチックと異なり数百年後まで待たなければなりません。当然、私たちは死んでいますから6代先くらいの子孫になってようやく木が切り倒されそれが材料として用いられることになります。

それまでの間、自然環境に恵まれ虫害に負けず立派に育った場合、また形も整い住宅に適したものだけを選別され利用されます。壊すのは簡単ですが、ここまでくるまでにかけてきた年数、またその木材を運び加工してきた大変な手間を考えると今の時代では非生産的非効率的ということになるのでしょう。

人間が作り出せたものだけが価値があるように信じ込まされ、自然にあるものは古く利用価値が低いとする。こういう教育というものを施され、そういう社会の中に平然と生活していると「暮らし」そのものが消失します。

歳月というものがかけてきた時間というものの真価は、とても尊いものです。それを文化と言います。文化の価値がわからないというのは、今の自分が存在してきた歴史の価値もわからないということです。自分を大切にしていない人が増えているのも、暮らしが消失していく中で発生しているのかもしれません。

自然と共に生きて暮らしていく人間の知恵の中は、親祖をはじめ先祖たちが歳月を紡いでくださったものがあったのです。歳月というものの価値がわかって人ははじめて物のありがたさ、また心のもったいなさに気付けるというものです。

この先、未来を思えば先祖たちはどのような不安を抱くでしょうか。古民家の解体にあるように何百年も維持されてきた暮らしは一瞬で壊されて失われます。文化が失われるということは、もう後戻りはできないということです。壊して捨てた古民家はもう二度と戻ってくることはないのと同じです。

壊さないという選択肢、大切に遺していこうとする選択肢、それを今までの歳月の上に温故知新していこうとする選択肢、つまりは伝承しようとする生き方をするかどうかが、これからの日本人にかかっているように思います。日本の原点を忘れた文明は、歪んだ発展を繰り返し衰退し消失してしまいます。本物以外は駆逐するのが自然の姿だからです。

如何に本物を遺すか、如何に本質を維持するか、それがなつかしい未来のための子ども第一義です。引き続き、真摯に初志を貫徹しご縁を活かして実践を積み重ねていきたいと思います。