一緒とバラバラ

先日から一緒とバラバラという言葉を深めています。一緒というのは家族的であり、その反対がバラバラですがそこには今までの教育や社会の環境の刷り込みがあるように感じます。今、人と一緒になろうとしてなれず孤独で苦しんでいる人たちが多いように思います。誰といても孤独を感じてしまう、もしくは何も感じない人になるのは本心のままであることを否定してきたことで発生しているのかもしれません。

そもそもその大前提として、もともと個人がバラバラだから一緒になろうとするのともともと一緒だから一緒なのだと信じているのでは意味が異なります。一緒になっているというのは、丸ごと信じているということです。そしてバラバラというのは言い換えれば部分しか信じていないということです。

例えば、親でもなんでも見守る存在のことを自分自身が丸ごと信じ切っていれば安心しているものです。この安心こそが一緒を理解している場所であり、繋がりや絆を感じて一緒になっているのです。しかし不安や疑心暗鬼、疑念をいだいているのならすでにそれはバラバラの状態であり無理に一緒にしようとしても心がついてきていないのだから一緒になっているわけではありません。

そして一緒になれない理由の一つには、心を閉じていることが問題なのです。この心閉じるというのは信じないという心の態度です。信じられるまで相手を疑い、いつまでも自分が傷つかないように自分を守っていたら信じる人は現れません。ここまでは信じる、ここまでは信じないと自分で評価していたら疑うばかりで信じることができないからです。

信じるというのは一種の覚悟で、信じれるまで裏切るのではなく裏切られるまで信じるというように自分が信じたことを自分で信じるという行為によって成立します。これは単に盲目に感情的に信じようとするのではなく、自分の本心、あるがままの自分でいようと決めそこで人と関係を築こうとする心の態度です。今の社会は、競争、比較、評価と常に自分の身が危険にさられている世の中です。自分の身を守ることばかりに終始し思いやることよりも自己保身に走れば本当の自分をさらけ出すことはありません。そうやって自分を必死に守ってきたことで常に先に自分ばかりを気にするようになりそのうち相手との関係が築けずバラバラになっていったのでしょう。

バラバラになったものを無理につなげようとするのではなく、本来は競争しなくても比較しなくても評価がなくても、自分という存在はあるがままに認められているということを自覚することが自分を知り相手を知るための大切な要素であると気づくことです。あるがままの自分を認めることは、あるがままの相手を認めることです。ここは認めているけれどここは認めないというような自分自身に対する評価は、必ず相手に向かって向ける眼差しになり無意識に周囲に攻撃します。こういう自分のことを理解し、こういう自分でも愛してくれている人たちがいることに感謝できてはじめて今の自分を丸ごと認めることができるのかもしれません。

最後に作者不詳ですが、「一緒」になるための要諦を記した素敵な文章があります。

『一週間一緒に居たいなら、相手の好きな自分を演じること。

一ヶ月一緒に居たいなら、相手に合わせた自分でいること。

一年一緒に居たいなら、自分の気持ちを全部伝えること。

ずっと一緒に居たいなら、ウソをつかないでいること。』

引き続き、一番身近にいる自分自身との付き合いを内省により見直していきたいと思います。そして未来の子どもたちの社會が繋がりと絆で満たせるようにその解決するための仕組みと仕法を見出していきたいと思います。