自他一体の活かしあい

人間には孤独と孤立というものがあります。孤独というものは自分自身の中にある本来の自己と向き合って自己を磨き成熟させていくための大切な時間でそのことによって自分というものと邂逅します。しかし孤立というものは、人と人との間の絆やつながりを切って自分勝手に我を通すときに一人ぼっちになります。自己中心的な生き方は孤独よりも孤立を広げていくように思います。

禅の僧侶で庭園デザイナー、多摩美術大学の教授でもある枡野俊明さんがあるインタビューの中での話に僧侶の生き方と孤独死についての問答でこう答えています。

「昔から、今でおっしゃる隠遁生活ですね、山の中に入って一人静かに本を読み、坐禅をし、自然と共に生きていくと。これは実は日本人の理想とするところなんですね。そういう中で静かに息を引き取っていく。西行法師なんかもそうですね。歌がありますけれども。それと今、社会で起きている「孤独死」と言われているのは、実は隠遁生活した方々は、周りの自然と全部と関係の中に生きているわけですよ、生かさして頂いている。ところが今社会で言われている「孤独死」というのは、そうではなくて、全部と縁を切ってしまっている。これは、私は、「孤独死」ではなくて、「孤立死」だと思うんですよ。孤立してしまって、周りとの関係性がない中で亡くなっていくという。これは非常に悲しいことなんですね。「孤独死」は、私は、ある意味の日本人の理想とするところでもあるんで、自然との関係の中で、自分の理想とする生き方の中で、それを成し遂げていくんであれば、それは私はいいと思います。」

ご縁の中で活かされている自分というものを感じながら生きているのは孤立ではなく、全部ご縁を切って生きていくのが孤立。人と人との間において孤立してしまうことは孤独とは意味が異なるということをおっしゃっています。

なぜ人が孤立するようになるのか。そこには自分が生きているわけであって自分が活かされているとは感じなくなるからかもしれません。たくさんの方々の御蔭様で成り立つ自分が仕事ができるのは、周囲の方々の無償の協力や援助、そして見守り支えられてはじめて自分ができたことになります。比較競争評価の中で、自分ばかりを周りから優位に立たせようとしたり、自分が評価されるために感謝されようとしたり、誰かと比べて自分を卑下したり他人を見下したりしているうちに人間は自己中心的な我が強くなっていくのかもしれません。

しかし立ち止まってよく考えてみたら、有り難いご縁に恵まれて一日一日は訪れて尊い今は過ぎ去っていきます。人生の妙味を最期まで味わっていきる生き方というものは、自然の中であらゆるご縁に結ばれて生きている自分に出会うことかもしれません。

そういう意味で隠遁生活というものは、孤立ではなく孤独と枡野禅師は仰っているように私は思います。不自然な自分の我を張り通せば張り通すほど周りとの不調和が生まれます。自分が自然体になって自分の心を開いて周りを信頼しつながり絆を結び無我になればなるほどに調和してご縁が広がっていきます。

今の時代、バラバラになりやすいのはこの社会が比較競争評価の中で常に自分ばかりを守ろうとし心を閉じて本心を分かち合わないような環境が広がっているからです。自分であまりなんでもやろうとはせず、誰かと一緒に進めることを学び直したり、いつも一緒にやっているという感覚を忘れないようにしたりして孤立しないように常に注意しなければなりません。一緒かどうかは自分の心が決めています。自分はと分けてしまう中には自分のことを放っておいてくれや自分のやりたい通りにしたいという我が邪魔をしているのかもしれません。

人生は一人でやるとキツイことも一緒にやれば楽しくなります。人と生き活かされるという関係は苦しみをよろこびに転じる妙法のひとつです。比較競争評価のすりこみに持っていかれないように皆で協力する必要があります。

相談できる仲間がいたり、いつも陰ひなたから手伝ってくれる人がいるということを忘れず、お陰様と感謝の心で活かされている自分のままに周囲もまた活かせる自分、自他一体の活かしあいに生きていきたいと思います。