人は誰しも感情があります、その感情は我があるから感応します。また人には誰しも真心というものがあります、その真心があるから真我が感応します。ここの境目にははっきりと我と真我という分かれ目があるわけではなくそこは薄明りのように和合しています。
この我や真我というものは頭で理解することはできず、たとえば真心なども言葉や知識で理解できるものでもありません。心技体、真摯に苦労をおしまず自己すべてを使い切っているときに発動しているものです。すべての物事はこの真心に懸っているとも言えます。つまり良いか悪いかは頭ですること、心でするのは真心のみです。
聖徳太子がこういう言葉を17条の憲法の中で遺しています。
「真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。物事の善し悪しや 成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。真心があるならば、何事も達成できるだ ろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。」
これは第9条に書かれており、良いか悪いか、正しいか間違っているか、それはすべては真心のあるなしがすべてであるといいます。それを受けて第10条にはこう添えられます。
「十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。お互いにだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」
謙虚に自分自身の至らなさを恥じて、自分自身の真心を確認して自分を正し続けるということです。そしてこれは私たちが目指す聴福人の姿です。まずは心のままに聴くのが先だということです。そのうえで誠実に実直に真心を盡していくことこそが、人の道の根本でありそれが生きるということにおいての本業です。そういう意味で仕事のコトとは何か、このコトには意味がありますからその事が為すということは真心を盡すということであり、その真心を盡すことこそが仕事の本義本業ということになります。
頭でっかちにわかった気になる理由は、真心を盡すという本来の本義から外れているからです。頭でできるような仕事は真心を使わない分、楽を選んでいきます。自分にとって都合が悪いもの、自分にとっては苦しいもの、自分にとっては大変なものであったとしても、「それでもやるか」と自省するとき、真心がどうなっているのか、自分の至誠は果たしてどうなっているのかは自分自身(我真我)が対話をするのです。
この対話を通して人は対立関係をやめて和合し一つになります。真心を盡していくことが和合そのものであり、その真心こそが何よりも尊いのです。和を持って尊しとするのは、何よりも真心こそが全ての根本なのです。
真心の仕事こそ、カグヤの本義本業です。
刷り込みが深いのもまたこの心の対話がまだまだ未熟な証拠ですから、常に真心からの行動や言葉、そして真心での働き方、かかわるすべての物事へ真心の生き方を通して磨きをかけて刷り込みを転じて丸ごと活かし子どもたちの役にたっていきたいと思います。