価値というものがあります。この価値はそれぞれの価値観が決めるものですが、ある人は石ころだと思っているものが宝石であり、ある人がゴミだと思っているものが至宝だと思うこともあります。
これはそれぞれの人の持っている価値基準によって左右されていくものです。しかし価値にはそういう人の価値観で左右されないものがあるように思います。それは時間をかける価値です。
今の世の中はすぐに結果を求めてきます。もしくは結果が出ないものを無価値のように刷り込まれているところもあります。取り組んでいる時間こそが価値だとは思わずに、その結果が早くでることだけを焦って評価します。時間をかける価値がないとまではいきませんが、1か月で結果が出るものと1年で出るもの、10年で出るものと、30年で出るもの、そして100年懸って出るものと1000年後に出てくるのでは明らかに価値が異なるということがわからないのです。
実践というもの一つをとっても同じく、本物の価値というのは時間の経過と共に証明されていきます。その人生を何に懸けたか、そして何に捧げたかという価値は時間の経過と共に必ずにじみ出てくるからです。
つまり結果から評価するのが価値ではなく、結果以上の価値が観えるかというものが真価というものなのです。人生ではそれを生き様ともいい、古今の覚者はそれを大義とも呼びます。
歴史の中でその時代に如何に結果が出ずに無価値だと思われていたとしても時間の経過と共にその価値は燦然と輝いてくるものです。なぜなら時が魂を磨いていくからです。そしてその価値が結果としてはじめて人々に認識されるとき、その価値の意味を理解できるようになっていきます。
しかしその人物は結果を気にして取り組んだのかということになると、結果よりも大事なものを優先したということは自明の理です。その人物が結果がすぐに出ないことに嘆き焦るようでは、それだけの偉大な価値を創出することができなかったはずです。それは例えば空海然り、聖徳太子然り、松尾芭蕉然り、二宮尊徳然りです。
人は願いを持ちますし、祈りを持ちます。その願いや祈りは、時空を超えて今の私たちの心の中に永遠に一緒に生きていきます。それは結果ではなく、常に経過の中に息づいているものです。いわば、心の中に一本の御柱が貫かれるがごとく志として伝道され続けます。
改めて生きるということが何か、そして本物の価値とは何か、人間一度は人生一生の醍醐妙味の中でそれを掴まなくてはと感じます。なぜなら大義に生きてきた先人たちの御魂に触れることではじめて人は信じることの価値を学び直せるからです。
信じる世界には結果がありません。
ただ信じるだけです。
あなたたちにはこの信じるという価値が観えていますか?
これからも信じて信じ切っていく中で、自分のできることは少ないけれどできる限り子どもたちに時間をかける信じる価値を伝承していきたいと思います。