明障子~自然と寄り添う姿~

昨日は障子の張り替えをクルーのみんなで行いました。手すきの和紙を糊をつかい昔からの方法で一つ一つ貼り合わせていきます。慣れない作業は大変ですが、一つ一つを丁寧にやっていくと自分の性格も観えてきて、また指先などの手仕事の豊かさも感じられ日本の家屋にまた学び直すことができました。

この障子は、襖が誕生してのち約100年後の平安時代末期に登場したといわれます。間仕切りとしての隔てと採光を両立させた明障子は画期的な発明だったといいます。実際に和室の中の木や土、竹や草、つまり畳や土壁に入るこの紙の明障子は空間を引き立たせ柔らかい灯りを家屋全体に与えます。

まるで杜の木漏れ日の中にいるような感覚になり、その陰翳礼讃には心が清々しくなり灯りの円やかさに時を忘れるようです。

日本人は、かねてから自然と対立するのではなく自然と寄り添い自然と溶け合い暮らしてきた民族です。日本の瑞々しい気候風土に合った生活は、自然を遠ざけるのではなく自然を身近に感じられるように随所に工夫されています。

例えばこの明障子というものも、家の内と外を遮断するのではなく敢えて自然とつながる状態を維持するようにつくられています。それは光や音、空気、薫り、それらが遮断されずにつなぐ役目も果たします。

そもそも遮断という発想は、自然との対立から生まれます。あくまで自然を遮断するのではなく、自然と接続するという考え方が自然との共生です。それは自然と一緒に生きていくという考え方が大前提になっています。

人間はいつも自分たちを活かしてくださっている自然に感謝の心を持てば、その自然と遠ざけようとはしないものです。それを自然と切り離して人間だけの社会をつくり、自然を遮断し一時的に快適な暮らしをできたとしても長期的に観た場合はそれは快適なことではありません。短期的快適と長期的快適とでは同じではなく、長期的快適さというのは自然のリズムと自然の流れに添って暮らしていくことだと先人たちはみんな知っていました。

私たちは球体の地球の中に住ませていただいていますから、すべてのことは循環して円転していきます。つまり今の暮らし方が循環して近しい未来に必ず因果応報の摂理に従い自分たちに帰ってきてしまいます。長い目で考えるのは循環することを知っているからです。巡り巡って必ず自分のやったことが戻ってくるからです。だからこそ如何に周りに良い影響を与える暮らしをするか、それとも自分だけが良い暮らしをするかは、長い目線で観た時に必ずその利害が明白になっていきます。

古民家甦生をしながら感じるのは昔の家屋は捨てるところがなくほとんどが甦生し新たな役目を持つものばかりです。それは自然からできているものであり、自然から離れないことで自然の摂理に合致しているから循環するのです。今のように大量のゴミを出し、それを廃棄し燃やしていくというのは多大なエネルギーを消費します。

本来の日本の気候風土に合致した暮らしは、いかに自然とつながり一緒になりながら豊かに暮らしていけるかという考え方が必要な気がしています。

そういう意味でこの明障子から学ぶものが多く、この自然と接続する謙虚で柔軟な姿から接続の仕方を教えてもらえているように思います。

その明障子は、正しく用いて張り替えていけば100年でも200年でも持つそうです。

自然に逆らわず、自然と寄り添い生きることを選択してきたご先祖様たちのような暮らしを今の時代でも実践していくことで子どもたちにその豊かさの本質を伝承できます。引き続き、日本文化、伝統に触れながらひとつひとつを五感で味わっていきたいと思います。

い草道

昨日は、聴福庵にて畳づくりを畳職人と一緒に行いました。私たちが手伝ったのはほんの少しでしたが、い草の表を藁のクッションの上に敷きそれを加工し糸で縫い上げていきます。い草のいい香りがする中で、一つ一つの畳を丁寧に手作業で創り上げていくプロセスを一緒にすることで畳の持つ魅力となぜこれが日本文化とつながっているのかを再認識することができました。

また今回は、熊本の八代からい草の生産ではとても有名な草野さんご夫妻に来ていただきイグサのことや育て方、その生き方までお話をお聴きするご縁をいただきました。

聴福庵に導入されたい草の畳は丈夫で艶のある品種のい草「せとなみ」「涼風」の中から厳選され選り抜かれたい草のみで織り上げたものです。その風合いはまるで美しい草原が和室に入っているようなもので、その上に座りじっと佇んでいるとうっとりします。時間が経てば経つほどに好い飴色の雰囲気を醸し出すこの畳は私たちの暮らしにとても大きな豊かさを引き立ててくれます。

まず草野さんは「畳は工業品ではない、農産物です」という言葉からはじまり、「生物として生きているからこそ「いのち」を扱っていることを大切にしている。いのちがあるからこそ、畳の色も香りも変化してくる。喋らないから生きていないのではなく、植物も生きているということを忘れてはいけない」と仰いました。

私がお話の中で特に感動したのは、「自然の恵みを受ける農業は、自然から授かるのだからもっとも神聖なお仕事です」という言葉です。また続いて「自然は素直で必ず自分がやったことがそのまま帰ってくる。だからこそ素直な心で自然と向き合っていかないといけません。」

私も自然農を実践して6年目になりましたが、ここにも自然に寄り添い自然の道に学ぶ人がいて、草野さんから醸し出す雰囲気はとても謙虚さに溢れ優しく日本人らしい懐かしい精神を感じました。私が尊敬している自然人はみんな、同様に自然の畏敬を忘れずに自分自身を変え続けている人です。そして自然の御蔭様に感謝して楽しみ喜びの中で暮らしている人々です。

かつての日本人はみんなこのように優しくて素直な雰囲気を持っていたように思います。風土が育てた純粋な日本人はみな、このような無垢な自然体を持っていたように思います。今ではその日本の風土と異なった人間都合の生活の中で風土に合わせた生き方をする人たちがいなくなってきています。

草野さんは「自分がい草に寄り添いながら生きてそれを喜びにすることでい草を使ってくださる方の喜びをつくり、そして竟には社會の喜びにしていく」といいました。それを「共存共栄」と定義してその生き方が草野さんの理念になっていました。そのために「本物の製品をつくり続ける努力を怠らない」といいました。これは単にものづくりにおける精神ではなく、真摯に真心を込めて生き切る生きざまと生き方を感じてそういう方の畳とのご縁をいただき尊いご縁に有難い気持ちになりました。

そしてこれは私のこだわりではなく、当たり前であることと仰る姿に草野さんの道楽の境地を感じて私も精進していきたいと改めて学び直しました。

最後に草野さんの言葉です。

「子どもや孫たちにしてほしいことをやっているだけす。そうして自分たちが真から楽しく、喜びの真ん中にいればいい。よい思いは周りも変わっていくのだから。またこれは自分の生き方だから、それを子孫へ押し付けるつもりもない。どんな時も自分がどうありたいかが大事、まずは、自分の心が素直で真摯かどうか。それがすべて。そうはいっても自分の中に反発心とかもあるけれど、それでもやりきることが大切。イグサとも、そういうことをやっている。そして私の楽しくは、泣いても苦しくても楽しい。面白くで楽しいではなく、そういう思いでやっているのです。」

ここに私は「い草道」を感じました。

道を歩む先覚者たちの言霊はみんな同じ響きを持っています。有難いご縁に感謝し、このご縁を活かせるよう子どもたちにこの出会いを還元していけるように引き続き心の在り様を見つめて伝道していきたいと思います。

 

 

 

お餅つきの真心~初心伝承~

昨日は福岡の聴福庵でお餅つきを行いました。かつての暮らし、年中行事の復古創新のためにも色々と古来の習わしに従って最初から取り組んでいます。木臼は年代物でかつての「ちぎり」といった修復法でひび割れが修理され大事に何十年も使われてきたものです。そして杵はこれも100年以上前の蔵に眠っていたサルスベリの手作りの杵。また四段の蒸籠も数十年間ずっと大切に修繕されながら使われてきたものです。

これらの道具を昔の竈でじっくりと炭で蒸し、蒸しあがったもち米を石臼でよくつぶした後に木臼で「つく」という流れです。その後は、餅粉の上でみんなで出来立てのお餅を丸めていきます。また鬼おろしで大根おろしをつくり、それにつけて合間合間に出来立てのお餅を食べると美味しくて幸せな気持ちに満たされます。

皆でイキを合わせて一緒にお餅を「つく」という行為は、かつての私たちの先祖の暮らしを思い出させるようでとても懐かしい気持ちになります。この「懐かしさ」というものは、日本人の原点でありその原点があるから今の私たちが存在していることを思えばこの年中行事には常にそれを実感できるものが入っていなければなりません。言い換えればそれは「本物の行事」であり続けなければならないということです。

今では餅つきも簡単便利にできるよう機械化して、この臼と杵で「つく」ことがなくなってきましたし協働で手際よく力を合わせてお餅をつくり食べることもなくなってきたのは残念なことです。プロセスの中に懐かしさや原点があり、それだけを取り除いて結果だけあわせてしまうような取り組みには大切なものが入っていません。

昨日も私たちがお餅つきをしているところを通りすがりのお婆さんが、かつては20年前まではお祝い事があるたびにお餅をついていたと話をしてくださいました。節分や節句、田植えやお盆、お彼岸、結婚や出産、葬式の時、大切な節目にはいつもお餅をついていたといいます。今ではその光景も観なくなってきましたが、本来の日本人が大切にしてきた暮らしが消失することは私たちの精神や生き方が失われてきてしまっているということになります。謙虚に自然に寄り添って暮らし、人々と協働してお祝いを味わうという豊かさが経済の発展と共になくなっていくというのは、本末が歪んでしまうものです。

何のために生きて、何のために暮らすのかは、こういう人生の節目に周りの御蔭様があること、円満に和み笑うこと、こういうことが言葉に発していなくても年中行事の意味からみんな直観し伝承されてきたのでしょう。

御祝い事のハレの日とは、人生の節目の日であるということです。そのハレの日を「芽出度い日」としてご縁に感謝することを忘れないこと、お陰様を感じて生きてきたからこそそういう日々を慈しんで歩んできたのが私たちの先祖の真心だったのです。

引き続き大切な願いや祈りを子どもたちに譲っていけるように、先祖から続く一つひとつの暮らしを今に合わせて新しくしていきたいと思います。

 

最先端の教育

続けて自由の森学園の二日目の音楽祭に参加してきましたが、この日は合唱を中心に行われました。子どもたちが一緒に気持ちを合わせて歌う様子には、心響くものがあります。やらされて歌うのと自分が主体的に歌うのでは歌声もまた美しさも異なります。

自分の昔のことを思い出せば、音楽の授業が嫌いで歌声まで評価されることにウンザリしていました。その後、カラオケや自分ひとりで歌うことは楽しくやりましたが合唱などはあまり楽しかった思い出がありません。今ではみんなで何かを一緒に歌う喜びを知っていますが、本来の音楽の価値を子どもの頃に学べないことは残念なことです。

この自由の森学園の初代校長の遠藤豊さんは、こういう言葉を遺しています。

「いまの学校は、いわゆる“できる子”をつくりだすように力をいれているけれども、“わかる子”を育てることの大切さを見失っている」

「できるけれどもわからない子をたくさんつくりだしているのが、いまの学校教育の姿だろうと思います」

「なぜ?どうして?を考え、そこがわからないでオレは困っているんだと頭をかかえこむ子のほうが有望」

できる子をつくるのではなく、わかる子をつくること。これは言い換えれば、深めることが分かる子になっていくというこだと私は思います。できる子というのは、時間が経って経験すればだれでもある程度はできるようになります。しかしできるからとわからない子にしてしまえば、道の楽しみや学ぶことの妙味が分からない子になってしまいます。

本来、音楽であれ数学であれすべての学問はその奥深さがわかるからより楽しくなるのです。楽しくなるから好きになり、好きになるからできるようになります。先にできるようにしてもわかる子にならなければそこまでできてもあまり意味のない味気ない価値のないものになるのです。

世の中では、能力主義で育てられたできる子は、そのことができてもあまり嬉しく感じないしさらには深めようともしません。料理一つでも、上手にできたらそれで終わりでそれ以上に深めたり楽しんだりする創意工夫の面白さになかなか入りません。

これもかつて施された教育によってやらされたことでできる方がわかる方よりも価値があると刷り込まれてしまうのです。

分からないことを聴けないのは、できる子になろうとするからです。競争と比較の教育の中で、自分の中にできることが最上の価値があると信じ込んでいたらできないことが悪になります。そして努力してできるようになってもわかることに意味を感じなくなるのです。

わかることよりも私は手前にある「気づくこと」が大切だと思っています。気づけば人はわからないことが分かってきます。そしてわからないことがわかればそこになぜという自問自答が生まれます。そこから突き詰めていけば、自ずから気づきわかろうとし体験しようとするからです。

今は時代が変わり、できることは人工知能やロボットの方が効率よく正確にできますからいよいよ気づくことや発明の価値、つまりは創造力が人間に求められてきます。すると自ずからかつての教育から新しい教育へと価値観が変わってきます。すでに世の中の方が先に価値観が転換していますからこの変化に先に対応した方が時代にマッチングすることになります。こういう言葉も自由の森に遺っています。

「本来下りの電車に乗らなければいけないのに、上りの電車に乗っているようなものでしょう。その車両のなかでなにかをやってみても、それは行く先の正反対の方向に車両ごと運ばれていくだけです。」

本来の姿を知れば、今どこに向かっていくのか、どれに乗っていけばいいのかが分かってきます。これからの時代に相応しい教育や環境、また子どもたちに必要な体験や場は、私たち大人が子どもたちと一緒になってお手本を示していく必要があるように私は思います。

そして遠藤豊さんはこう言います。

「自由の森では生徒たちはたんに教えられる対象ではないし、親たちもたんに子どもを自由の森に預けている親というだけではなくて、教師とともにこれから創っていく自由の森の教育の主体者であり、学ぶことの主体者なのです」

教育の主体者で学ぶことの主体者であるということ、つまりは一方的に教え込むのではなく一緒に実践する仲間であるという位置づけ。言い換えれば教えない教育こそ教育の本質であるということです。今の時代は詰め込みよりも教えないことが必要で、これが最先端の教育になるでしょう。

時代錯誤なことをしないように、今の時代に相応しい生き方や学び方、そして復古創新の価値観を子どもたちのためにも実践していきたいとお思います。

 

教育改革

昨日から自由の森学園の音楽祭に参加しています。いつもながら子どもたちが活き活きと青春をし輝いている様子に学校の楽しさを感じます。どの学校も子どもが子どもらしくいられるような認められ尊重されている風土が醸成されている場は美しく明るく楽しいものです。

今の時代は、人口知能やロボットの出現から、いよいよ人間らしさが問われる時代に入り教育もアクティブラーニングをはじめ価値観が入れ替わってきた時代に入ります。この自由の森学園が堅持してきた思想が今や世の中方が同じ価値観になってきています。だからこそ自由の森学園の初心や理念が改めて見直されるような気がしています。

まずその自由の森の理念の支柱になっているのが日本の数学者、遠山啓の思想です。その遠山啓はこのような言葉をインスパイアしています。

「この宇宙のなかでもっとも複雑で知りがたい人間をいともお粗末なテストの点数などで序列づけることなどできるはずはない」

まずは人間というものを理解するのに点数と序列などは不要であるといいます。数学においてこのような数字の使い方と数字による序列などという考え方の無意味さをもっとも見抜いていたといえます。特に序列についてはさらにこう続きます。

「日本中の子どもはこの幻想のピラミッドを一段でも高くのぼるように尻をたたかれる」

「教師が創造的になることを妨げる最大の障害物は、教師の中にある内なる序列主義である。」

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

「『差がある』ということと『序列づけが可能』とのあいだには天地ほどのちがいがある。」

「教師にとってなによりも必要なことは、点数というメガネで子どもを見ないようにすること」

序列とは優劣を決めて順序を決めることです、これは言い換えれば個の能力によって個の優劣を決めるということです。本来、チームや仲間などで一緒に生きていくのであればこの序列は必要がありません。個の能力ではなく、集団の中での個の持ち味になるからです。しかしこれまでの教育は、そうではなく個の集団における優劣に終始したことで、歪んだ個人主義が蔓延していったように思います。さらにこう言います。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

これは思うところがあります。間違った教育とは、人間の序列と優劣です。これらの大人の刷り込みは競争比較社会の中でなかなか取り払われず、子どもの方が色濃く人類永続の智慧を持っている気がしています。理念の実践を通して、自分が変わっていくことで大人がそのモデルを示す必要を感じますが、子どものころからその智慧が守られれば将来に確かに大きな力を社會で発揮していくと思います。そして学校についてはこう言います。

「学校にいきたがらない子どもがひとりでもでたら、その学校にはもはや危険信号があるのだ、と考える必要がある」

「私は、現在の学校で、平凡なことで忘れられていることがあると思います。それは、『学校は楽しいところでなければならない』というだいじな原則が忘れられているのではないかということです。」

学校が楽しいのは、仲間と一緒に学びあう喜びに出会うからです。学問に師があり道ができ、友があればそれは最幸の人生です。人生において道を一緒に生きていくことができるようにするのが師の役割でもあります。

また自由の森学園の初代校長の遠藤豊さんは、この遠山啓さんの思想を受けてこういう言葉を遺しています。これは当時の先生ではなく、私たちの本業に対しても同感するものがあります。

「子どもといっしょに生きて、子どもといっしょに考えて、そして、自分自身を変えていく、ということが、まず、教育という仕事が成立する基本」

「子どもといっしょに考えたり、あるいは子どもが考えやすいようにしたりして、子どもたちが試行錯誤を経ながら自分自身の発見として一般化をなしとげるような授業をつくらないとだめ」

「それまでの自分の考え方やものの見方を打ちこわして、新しい世界を発見していくこと、そして、自分のなかに新しい考え方を生み出していくこと、そのことが学ぶということ」

私たちの実践も、そして一円対話をはじめ様々に取り組んでいる現場の改善もまた以上のことを実現するために行われているのです。そして最後にこの言葉で締めくくります。

「学校に教育がなくなってしまっていることをいちばんよく知っているのは子どもたちです」

子どもの声を聴いて、今何の改革が自分自身に求められているか、教育に関わる全ての人はもう一度そのことを見つめなおす必要があると私は思います。教育改革は、人類の甦生です。たしかな道が遺り続いている以上、布置を見出し自分はこう変わるというのを社業を通して示していきたいと思います。

一期一会~今~

四書五経の一つ「大学」の中で「苟日新、日日新、又日新」という言葉が出てきます。これは古代中国に殷という国の初代湯王が (まことに日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)と毎日使う手水の盥(たらい)に銘辞を刻んで日日の自戒としたとされているものです。

これは自分の日々の垢を洗い清めるように、過去に発生したすべてのことを取り払い新しい自分でいようと磨き続ける、言い換えれば「今を生き切る」と弛まずに精進し続けたという証です。自分が過去に捉われないよう、自分が今に生き続けるようにと自戒したという生き方にとても共感します。

これを座右にした昭和の大経営者の土光敏夫さんがこのようなことを語っています。

「神は万人に公平に一日24時間を与え給もうた。われわれは、明日の時間を今使うことはできないし、昨日の時間を今とりもどすすべもない。ただ今日の時間を有効に使うことができるだけである。毎日の24時間をどう使っていくか。私は一日の決算は一日にやることを心がけている。うまくゆくこともあるが、しくじることもある。しくじれば、その日のうちに始末する。反省するということだ。今日が眼目だから、昨日の尾を引いたり、明日へ持ち越したりしない。昨日を悔やむこともしないし、明日を思いわずらうこともしない。このことを積極的に言い表したのが「日新」だ。
昨日も明日もない、新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という一日に全力を傾ける。今日一日を有意義に過ごす。」

今この瞬間に生き切るということは、自分のいのちを一期一会に使い切っているということです。私の座右も一期一会ですから、この生き方に共感するのです。時は過ぎ去っていくだけで過去の成功に縛られても仕方がないし、未来のことばかり憂いていても仕方がない。大切なのは、今どうにかできる今だけですから今に真摯に真心を盡していくことこそが人生を豊かに感謝で生き続けることになると思います。新しい自分とは、今の自分のことで古い自分も今の中に生きています。だからこそ古今は未来そのものです。

この殷の湯王の自戒には、もう一つ私が心から尊敬するものがあります。反省とはこういうもので、内省とはこういうものだという至高のお手本を示したものです。論語を学び、大学を学ぶものとしてこの殷の湯王は何よりもそのモデルになります。

最後にこの殷の湯王の自戒で締めくくります。

「希望あれば若く
燃ゆる情熱
美しいものへの喜悦
逞しい意志と情熱と
安易な惰性を振り捨てて
人は信念とともに若く
情熱を失うときに老ゆ
希望ある限り若く
理想を失い失望と共に老ゆ
心して暮らせ」

一期一会というのは、この信念と情熱と理想、意志と希望と喜悦によって真心を盡して暮らすことです。子どもたちのためにも、自分がその実践を体現して生き切っていきたいと思います。

本末樹立

学問には時務学と人間学というものがあります。これは人間が成長していく上で両輪であるとされます。時務学は末学といい、人間学は本学といいます。この本末をしっかりと調和させていくことが今を生きることになります。

例えば、どんなに新しい時代の道具や仕組みなどもその人物の人間力によって左右されます。これはIT技術などもそうですが、進歩していく技術は時が経てば発展していきます。しかしそれに対して道徳といった人間の進化が発達していかなければその技術は人間や自然を破壊するように使われるかもしれません。

本と末というのは、本ははじまり末は終わりという意味です。そしてこれが入れ替わってしまうことが本末転倒という諺にも出てきます。例えば、種があって花が咲くのであって、花があって種ができるわけではない。また幹があって枝葉ができるわけで枝葉があって幹があるわけではないということ。

これを人間に例えれば、人間が徳があってこそはじめて技術が進歩していくわけで技術が進歩することで人間ができてくるわけではないということです。

人間学を学び精進しながら本当の技術を伝道していく、これは私たちの会社のウェブも同じですが単に技術だけをやるのではなく、人間学を真摯に学ぶ人がどのような技術を使っていけばいいかを実践して示していくのです。こういう使い方が本来の姿であるということや、こういう事例は人々の徳を高めいくというように人間が進化していくのを見守っていくのです。

そのためにも、何が根幹であり何が枝葉であるかを決して忘れないことです。それは言い換えれば「何のためにやっているか」という本質は決して忘れずに「今」の技術を活用していくことです。

本質がなくなればその文字通り「本」が消失します。するとうわっつらの見せかけばかりに終始していつまでも本質に立ち返ることもなくなります。何のためにかを考える力は魂の力でもあるし、心胆力でもあります。常に理念に沿って初心を忘れずに自分が場数を踏んで働いているのなら、それは本から離れることはありません。その上で日々の日常業務などができる人、それを今の時代に合わせた仕事にしていける人物が本末樹立させていく人です。

しっかりと大地に根をはり、天に向かって大きく豊かに成長していくためにも本末樹立を大切に実践を積み重ねていきたいと思います。

できないことを頑張る努力~競争刷り込み~

人は、完璧な自分に向かって努力していくことと完全な自分に向かって努力していくことでは努力の定義が異なります。例えば、育てるときに使う努力と、育つときに使う努力とが異なることとも同じです。無理に育てるために努力するのなら詰め込みやらせた方がいいのですが育つための努力するのなら見守る方がいいのです。

私たちの会社は一家という家族という関わり合いで働いていきます。チームも同じですが、一人で生きていくわけではないのだからお互いに持ち味を活かしあって働きます。一人だけで生きていくのならなんでも自分でオールマイティにできなければならないことも、仲間やチーム、組織があるのだからできないことは周りに頼り自分にしかできないことでみんなに貢献していくのです。

しかしかつての比較競争の社会教育を施された人たちは、できないことがあってはならないと無理になんでも頑張ろうとします。自分にしかできないことをやろうとするのではなく、常に自分ができるまで努力しようとするのです。こういう刷り込みを持つと「できないことを頑張ることが努力」だと思い込んでしまいます。そしてできないことを頑張らないことは楽をしたことだとし真面目な人は悪いことをしていると罪の意識すら持ってしまうのです。

実際に教室では先生と生徒はどこでも縦の関係が強く上下のピラミッドの関わりです。そして生徒と生徒は仲間というよりも比較競争されたライバルだったりします。そうなってしまうと一人でできるようになることを目指していくようになります。全員が同じ課題を持ち、全員が同じことができるようになる組織の中では自分だけができないことは悪いことになるのでしょう。

しかし時代は変わり、今ではアクティブラーニングのようにチームや仲間と一緒に学びあうということになってくるとできないことを頑張られると周りの人たちは協力できなくなるので困るのです。もしも仲間やチームがあっての中の自分ということになれば、「自分にしかできないことをやり、できる人に頼んで手伝うことが努力」と定義が変わっていきます。それぞれの得意分野を活かしつつ、自分にしかできないことをやるのは、その根底には助け合い支え合って思いやり一緒に生きていこうとする協働社會が存在します。

協働社會の時の努力と、競争社会の時の努力は価値観が丸ごと全く異なっていますからそれが誤解してしまいといつまでも協働して一緒に働くことができないことになります、無理をしてできないことをできるまで頑張ったり、できることばかりをやり続けたりすることは最終的な孤立を生みます。そうやって助け合わずに働けば結局はいつも一人ぼっちになり、仕事が増えすぎてパンクして投げ出すことが関の山です。

だからこそそんな働き方、つまり競争の働き方をやめて協働の働き方に換えていくべきです。時代は今は、協働を求めていますしすでに今世紀は協働世紀です。それは人類がかつてから智慧として大切にこのいのちを繋いできた至高至大の唯一の徳恵だからです。

働き方改革というのは、私にしてみれば競争から協働へということです。

子どもたちに遺し、譲っていきたい未来の社會のためにも自分自身が何よりも自分にしかできないことで全体に貢献したいと思います。そして無理をして自他を責めず仲間を信頼し自分にはできないことを助けてもらい、頼り頼られる絆やつながりが広がっていくような協働の実践を積み重ねていきたいと思います。

できるできない刷り込み

今の世の中には「できる・できない」の刷り込みがあります。幼少のころから比較競争し能力を評価されていく経済社会の中で育てられそれに合うようにと教育を施されれば人はできるかできないかを基準に考えてしまうものです。

しかし、できるかできないかといった能力を中心にする考え方では本当の意味で持ち味を活かすことができません。例えば、自分が何ができるかを考えていけば努力次第ではなんでもできるということになります。しかし自分にしかできないことを考えてみるとできないことが何かをちゃんと取捨選択できるようになります。

人は一人でもしも生きていくのなら何でもできるにこしたことはありません。しかし実際の社會でオールマイティというものはとても弱いもので、お互いにできないものがあるから人は一緒に助け合い働くのです。

そう考えてみると、その人ができないというある種の「弱さ」の御蔭で人は人とつながっていくということになります。しかしできるできないの刷り込みが深い人は、自分からできないということを周りに公開することがありません。他人からできないことを指摘されても、それを自分でさらけ出すことはなく必死で隠そうとしたり、もしくはできたように見せかけたり、もしくはできないといわれないようにと頑なになり孤立します。そしてできるできないの刷り込みは、周りの人へ対しても同じような目線で観るようになります。あの人はできる人、この人はできない人で、できる人同士で組めばいいということになるとそのうち個人の利益を中心につながろうとしだします。簡単に言えばただメリットがあればつながるのです。

確かに競争の経済社会でそのように組んでメリットがなくなればすぐに他の人という考え方は効率的かもしれませんが、実際には会社や社會、組織ではそんな簡単に切ったりはったりなどはできません。なぜなら人は人間ですからいっしょに生きていく仕合せや豊かさも味わいたいからです。むしろ、人間が働くのは有史以前から人類がそうやって地球で豊かに暮らしてきたからであり、それが人間の本質だからです。

本来、チームや家族のような関係はできないことを補い合います。つまりできないことを補い合う方が協力になるからです。できないからこそ、助けてもらう、できないからこそ支え合う、つまりそこに思いやりや絆が生まれるということです。そしてそこには個人主義ではなく、皆のために貢献していこうとするみんなの中の一人という責任のある自分になります。

今のように個人主義が優先されれば、誰に頼ったらいいのか、誰に頼んだらいいのか、誰に任せればいいのか、次第に分からなくなって孤立するのは自分からできないことを安心してさらけ出せる組織ではなくなります。だからこそ、もっと組織においてはできるできない刷り込みを捨て去って一人でできなくてもいいという文化を醸成する必要があると思います。

それは能力がないのに努力しなくてもいいというのではなく、何のために努力するのかをみんなが理解しあっているということです。そうやって一緒になっていけば、本来必要な努力が何をすることかが必ず自明します。

引き続き、世の中が弱い人たちを断罪しないように、強い人たちばかりが頑張らないように、みんなが助け合う社會、多様性が活かされ続ける人類の至高の強みの境地、それを実現していきたいと思います。

今を生き切る

過去をひきずるタイプというものがあります。いつまでも過去の自分のことや、嫌だったことを思い出しては今の自分のことを認めることができない人のことです。人は誰しも過去があるのは、その時々で体験して今があるからですが今を生きないための材料になってはもったいないように思います。

日々というのは、毎日新しくなっていきます。当然、同時に人もまた新しくなります。その新しいというのは、過去ではなく今のことであり、新しい日々を生きるというのは、今を生きるということです。

自分を刷新していくのは、今に生き切るということで今に全身全霊を懸けているということです。過去をひきずる人は、過去の自分と比較し、過去の自分と競争し、過去の自分のことを忘れられません。例えばそれは決して過去の嫌なことだけではなく、過去の栄光や過去の成功など、自分がもっともよかった時代をいつまでも忘れないなどもそうです。バブルの頃を忘れられないや、自分が偉かった時代のことをいつまでも話したりします。

本来、私たちが生きているのは過去ではなく「現在」であり今だけです。この今此処だけに全力で盡していくことで比較の刷り込みが拭い去れ過去がすべて過去を含んだ「今」に転換されていきます。そして今があることが過去の御蔭様であることに気付ける生き方をしているのです。そういう今がある人たちは、すべてのご縁に感謝できるようになります。この今には、その人の生き方が出ているのです。

どんな人も「今を生き切る」というのは、一期一会の大切な自分の人生を生きていくための自戒だと思います。

色々なことがあったとしても、今があるのだからこの今に合わせて自分の方を換えていくことを変化といい、そして今に近づき合致していけばいくほどに成長したといいます。過去の自分と比較しての成長は成長ではなく、変化とも言いません。私たちが生きているのはこの今だけだからこそ、今どうありたいか、今の自分そのものを丸ごと認めていくことが今を感じることです。そうやって今に生き切るのなら今が仕合せになり、今の自分は変化し続けることになります。

誰しも変わらないでほしいと願うこともあります、しかし宇宙、地球、すべては万物流転し循環を已みませんから止まることはありません。自分から今を感じて生きているときだけ、その流れの中で万物の御縁と一緒に生きることになります。

まずは今の自分が好きになれるよう、今の自分が仕合せだと感じられるよう「今を生き切る」ことを大切にしていきたいと思います。