人は、完璧な自分に向かって努力していくことと完全な自分に向かって努力していくことでは努力の定義が異なります。例えば、育てるときに使う努力と、育つときに使う努力とが異なることとも同じです。無理に育てるために努力するのなら詰め込みやらせた方がいいのですが育つための努力するのなら見守る方がいいのです。
私たちの会社は一家という家族という関わり合いで働いていきます。チームも同じですが、一人で生きていくわけではないのだからお互いに持ち味を活かしあって働きます。一人だけで生きていくのならなんでも自分でオールマイティにできなければならないことも、仲間やチーム、組織があるのだからできないことは周りに頼り自分にしかできないことでみんなに貢献していくのです。
しかしかつての比較競争の社会教育を施された人たちは、できないことがあってはならないと無理になんでも頑張ろうとします。自分にしかできないことをやろうとするのではなく、常に自分ができるまで努力しようとするのです。こういう刷り込みを持つと「できないことを頑張ることが努力」だと思い込んでしまいます。そしてできないことを頑張らないことは楽をしたことだとし真面目な人は悪いことをしていると罪の意識すら持ってしまうのです。
実際に教室では先生と生徒はどこでも縦の関係が強く上下のピラミッドの関わりです。そして生徒と生徒は仲間というよりも比較競争されたライバルだったりします。そうなってしまうと一人でできるようになることを目指していくようになります。全員が同じ課題を持ち、全員が同じことができるようになる組織の中では自分だけができないことは悪いことになるのでしょう。
しかし時代は変わり、今ではアクティブラーニングのようにチームや仲間と一緒に学びあうということになってくるとできないことを頑張られると周りの人たちは協力できなくなるので困るのです。もしも仲間やチームがあっての中の自分ということになれば、「自分にしかできないことをやり、できる人に頼んで手伝うことが努力」と定義が変わっていきます。それぞれの得意分野を活かしつつ、自分にしかできないことをやるのは、その根底には助け合い支え合って思いやり一緒に生きていこうとする協働社會が存在します。
協働社會の時の努力と、競争社会の時の努力は価値観が丸ごと全く異なっていますからそれが誤解してしまいといつまでも協働して一緒に働くことができないことになります、無理をしてできないことをできるまで頑張ったり、できることばかりをやり続けたりすることは最終的な孤立を生みます。そうやって助け合わずに働けば結局はいつも一人ぼっちになり、仕事が増えすぎてパンクして投げ出すことが関の山です。
だからこそそんな働き方、つまり競争の働き方をやめて協働の働き方に換えていくべきです。時代は今は、協働を求めていますしすでに今世紀は協働世紀です。それは人類がかつてから智慧として大切にこのいのちを繋いできた至高至大の唯一の徳恵だからです。
働き方改革というのは、私にしてみれば競争から協働へということです。
子どもたちに遺し、譲っていきたい未来の社會のためにも自分自身が何よりも自分にしかできないことで全体に貢献したいと思います。そして無理をして自他を責めず仲間を信頼し自分にはできないことを助けてもらい、頼り頼られる絆やつながりが広がっていくような協働の実践を積み重ねていきたいと思います。