最先端の教育

続けて自由の森学園の二日目の音楽祭に参加してきましたが、この日は合唱を中心に行われました。子どもたちが一緒に気持ちを合わせて歌う様子には、心響くものがあります。やらされて歌うのと自分が主体的に歌うのでは歌声もまた美しさも異なります。

自分の昔のことを思い出せば、音楽の授業が嫌いで歌声まで評価されることにウンザリしていました。その後、カラオケや自分ひとりで歌うことは楽しくやりましたが合唱などはあまり楽しかった思い出がありません。今ではみんなで何かを一緒に歌う喜びを知っていますが、本来の音楽の価値を子どもの頃に学べないことは残念なことです。

この自由の森学園の初代校長の遠藤豊さんは、こういう言葉を遺しています。

「いまの学校は、いわゆる“できる子”をつくりだすように力をいれているけれども、“わかる子”を育てることの大切さを見失っている」

「できるけれどもわからない子をたくさんつくりだしているのが、いまの学校教育の姿だろうと思います」

「なぜ?どうして?を考え、そこがわからないでオレは困っているんだと頭をかかえこむ子のほうが有望」

できる子をつくるのではなく、わかる子をつくること。これは言い換えれば、深めることが分かる子になっていくというこだと私は思います。できる子というのは、時間が経って経験すればだれでもある程度はできるようになります。しかしできるからとわからない子にしてしまえば、道の楽しみや学ぶことの妙味が分からない子になってしまいます。

本来、音楽であれ数学であれすべての学問はその奥深さがわかるからより楽しくなるのです。楽しくなるから好きになり、好きになるからできるようになります。先にできるようにしてもわかる子にならなければそこまでできてもあまり意味のない味気ない価値のないものになるのです。

世の中では、能力主義で育てられたできる子は、そのことができてもあまり嬉しく感じないしさらには深めようともしません。料理一つでも、上手にできたらそれで終わりでそれ以上に深めたり楽しんだりする創意工夫の面白さになかなか入りません。

これもかつて施された教育によってやらされたことでできる方がわかる方よりも価値があると刷り込まれてしまうのです。

分からないことを聴けないのは、できる子になろうとするからです。競争と比較の教育の中で、自分の中にできることが最上の価値があると信じ込んでいたらできないことが悪になります。そして努力してできるようになってもわかることに意味を感じなくなるのです。

わかることよりも私は手前にある「気づくこと」が大切だと思っています。気づけば人はわからないことが分かってきます。そしてわからないことがわかればそこになぜという自問自答が生まれます。そこから突き詰めていけば、自ずから気づきわかろうとし体験しようとするからです。

今は時代が変わり、できることは人工知能やロボットの方が効率よく正確にできますからいよいよ気づくことや発明の価値、つまりは創造力が人間に求められてきます。すると自ずからかつての教育から新しい教育へと価値観が変わってきます。すでに世の中の方が先に価値観が転換していますからこの変化に先に対応した方が時代にマッチングすることになります。こういう言葉も自由の森に遺っています。

「本来下りの電車に乗らなければいけないのに、上りの電車に乗っているようなものでしょう。その車両のなかでなにかをやってみても、それは行く先の正反対の方向に車両ごと運ばれていくだけです。」

本来の姿を知れば、今どこに向かっていくのか、どれに乗っていけばいいのかが分かってきます。これからの時代に相応しい教育や環境、また子どもたちに必要な体験や場は、私たち大人が子どもたちと一緒になってお手本を示していく必要があるように私は思います。

そして遠藤豊さんはこう言います。

「自由の森では生徒たちはたんに教えられる対象ではないし、親たちもたんに子どもを自由の森に預けている親というだけではなくて、教師とともにこれから創っていく自由の森の教育の主体者であり、学ぶことの主体者なのです」

教育の主体者で学ぶことの主体者であるということ、つまりは一方的に教え込むのではなく一緒に実践する仲間であるという位置づけ。言い換えれば教えない教育こそ教育の本質であるということです。今の時代は詰め込みよりも教えないことが必要で、これが最先端の教育になるでしょう。

時代錯誤なことをしないように、今の時代に相応しい生き方や学び方、そして復古創新の価値観を子どもたちのためにも実践していきたいとお思います。