お餅つきの真心~初心伝承~

昨日は福岡の聴福庵でお餅つきを行いました。かつての暮らし、年中行事の復古創新のためにも色々と古来の習わしに従って最初から取り組んでいます。木臼は年代物でかつての「ちぎり」といった修復法でひび割れが修理され大事に何十年も使われてきたものです。そして杵はこれも100年以上前の蔵に眠っていたサルスベリの手作りの杵。また四段の蒸籠も数十年間ずっと大切に修繕されながら使われてきたものです。

これらの道具を昔の竈でじっくりと炭で蒸し、蒸しあがったもち米を石臼でよくつぶした後に木臼で「つく」という流れです。その後は、餅粉の上でみんなで出来立てのお餅を丸めていきます。また鬼おろしで大根おろしをつくり、それにつけて合間合間に出来立てのお餅を食べると美味しくて幸せな気持ちに満たされます。

皆でイキを合わせて一緒にお餅を「つく」という行為は、かつての私たちの先祖の暮らしを思い出させるようでとても懐かしい気持ちになります。この「懐かしさ」というものは、日本人の原点でありその原点があるから今の私たちが存在していることを思えばこの年中行事には常にそれを実感できるものが入っていなければなりません。言い換えればそれは「本物の行事」であり続けなければならないということです。

今では餅つきも簡単便利にできるよう機械化して、この臼と杵で「つく」ことがなくなってきましたし協働で手際よく力を合わせてお餅をつくり食べることもなくなってきたのは残念なことです。プロセスの中に懐かしさや原点があり、それだけを取り除いて結果だけあわせてしまうような取り組みには大切なものが入っていません。

昨日も私たちがお餅つきをしているところを通りすがりのお婆さんが、かつては20年前まではお祝い事があるたびにお餅をついていたと話をしてくださいました。節分や節句、田植えやお盆、お彼岸、結婚や出産、葬式の時、大切な節目にはいつもお餅をついていたといいます。今ではその光景も観なくなってきましたが、本来の日本人が大切にしてきた暮らしが消失することは私たちの精神や生き方が失われてきてしまっているということになります。謙虚に自然に寄り添って暮らし、人々と協働してお祝いを味わうという豊かさが経済の発展と共になくなっていくというのは、本末が歪んでしまうものです。

何のために生きて、何のために暮らすのかは、こういう人生の節目に周りの御蔭様があること、円満に和み笑うこと、こういうことが言葉に発していなくても年中行事の意味からみんな直観し伝承されてきたのでしょう。

御祝い事のハレの日とは、人生の節目の日であるということです。そのハレの日を「芽出度い日」としてご縁に感謝することを忘れないこと、お陰様を感じて生きてきたからこそそういう日々を慈しんで歩んできたのが私たちの先祖の真心だったのです。

引き続き大切な願いや祈りを子どもたちに譲っていけるように、先祖から続く一つひとつの暮らしを今に合わせて新しくしていきたいと思います。