厳父慈母

昨日は久しぶりに歯科医院を経営する友人と一緒に食事をするご縁がありました。6年前にお会いしてからお互いに6年間を振り返ることで改めて観えてくることもあります。いつになっても学び合いそれぞれの初心を確認できる関係があるというのは有難いことです。これも目指している理想や自分がこうありたいという生き方をお互いに諦めずに精進しているからできることです。学友や同志がある御蔭で、また日々の実践が深くなり味わい深くなります。

友人がいつも大切にされている自分自身への自戒は「誠実さ」であり、「自他ともに誠実である」ことを大切に日々の診療に正対されておられます。その姿勢は、誰かに対して自分を変えたりすることなくいつも自分の心に対して誠実かどうかに主軸があります。己に打ち克とうと刷り込みを取り払う努力も欠かしません。

今回お会いして特に印象に残ったお話に、父子の関係がありました。昔気質の厳格な父がいて、自分自身が長男だったこともあり幼いころから徹底して厳しくされてきたといいます。しかし本人はそれが良かったといい、厳しくても愛があったから今の自分があると深く父を尊敬し感謝されていました。続けて「自分は甘いから厳しい父の御蔭で小さなことを徹底したり、当たり前のことをちゃんと守るということを教えられた。それは父の厳しさの御蔭です。」と仰っていました。

古語に「厳父慈母」があります。かねてからこれは理想の両親像とされ、両親のその絶妙な調和の中で子どもはよく育つといいます。厳しさの中に愛があり、慈しみの中に愛がある。その両輪の愛を受けて育つということなのでしょう。苦楽を共にしたり、喜怒哀楽を共にしたりして充実していくのが自分の人生だから厳しさと慈しみの形の愛を受けて学ぶことはその子のその後の人生において心身を逞しく象っていくのでしょう。

高齢になった両親の親孝行をしたいと毎月日帰りで実家の歯科医院のお手伝いに飛行機で東京と熊本を行き来されているそうです。

植物や木々は太陽の光を受けますが、その養分と水は自らの根で吸収します。その養分と水は「愛」という存在によって心身の隅々まで運ばれるように思います。愛を受けて育つものはその根底に「感謝の心」が坐るように私は思います。厳父慈母はその感謝を育てているのかもしれません。

本当の優しさや思いやりの大切さを学べる子どもたちが増えるように、まずは大人がその生き方を示すことです。先祖の皆様や両親から受けてきた愛や御恩をしっかりと子どもたちに譲っていきたいと思います。

多様多彩

先日、仏教の子ども主体のある保育園で理念研修を行いました。もう十年以上一緒に理念に取り組み、一円対話やその他の私たちの社内と同じ実践を行っていますがその中での発見や気づきはいつも深い感動があります。目指している生き方を共にし、磨き合い高め合う関係は同志そのものです。

この園の保育の方針にはこう書かれています。

「この世界には山があり、谷があり、川があり、海があり、そしてそこにはたくさんの小さな薬草、中ぐらいの薬草、大きな薬草もあり、大きな樹木も、小さな木も、きれいな花も小さな花も、ありとあらゆる草や木があります。そこには、同じように太陽はあたり、雲が湧き、等しく雨が降り注ぎます。その雨はたとえどんな小さな花にも、大きな木にもあまねく平等に降り注ぎます。降り注ぐ雨は平等ですが、小さな花は小さいなりに、大きな樹木は大きいなりに、その受け取る量はまったく異なります。それでもそれぞれが自らの命を精一杯輝かせ、生き生きと成長していくのです。小さな花が大きな樹をうらやむ事も、大きな樹が小さな花を見下すこともいらないのです。仏さまのお慈悲は降り注ぐ雨のように、平等に注がれるのです。」

これは法華経の中にある仏陀の話、「三草二木のたとえ」から抜粋されています。これは私の意訳ですが、「どんな生き物も同じ自然の一部、その宇宙の下、お互いに尊重し合い、認め合っていこう」ということを仏陀が分かりやすく諭してくださっているように思います。

昔から見た目の違い、身分の差、持っているか持っていないかなど人間は自分の都合で違いばかりを見てはないものねだりをしていくものです。持っている人をうらやみ持っていない人を見下したりもします。比較と競争はこの世に争いを産み出していくものです。異質なものを受け入れず、単一で画一化されたものを良しとする風潮が世界に争いの種を蒔いているように私は思います。

今でも本来は異なるものを、みんなを平均化することでまるで同じものであるかのように教育を施しています。最先端の教育ではダイバーシティやインクルージョンの重要性が叫ばれてきていますがその根底には「お互いを尊重し認め合う」という人間として当たり前のことに気づこうとする原点があるように私は思います。

もちろん公平に分けるということは大切ですが、平等とは受け手が平等を感じることが平等ですから公平に分けてもそれは平等ではないのです。平等とは私の言葉では「認め合う」ということです。国の違いを超えて、生物非生物の違いを超えて、当然、大小や貧富、男女、そうやって二元化して分けてきたものを超えて本来は一つではないかと気づくことが平和になるということです。

人間が争わないで生きていく道は、この三草二木のたとえの実践を行っていくしかないように私も思います。自然はみんな異なっているのは、お互いを認め合っているからです。姿形が違うものは、それぞれにそれぞれでいいところがありそれを互いに尊重するから共存共栄の社會が存在していくのです。

最後に、かつて中国を訪問した時に御縁をいただいた慈覚大師円仁の句で締めくくります。

「雲しきて 降る春雨は分かねども 秋の垣根は おのが色々」

それぞれに己の命を全うしていく、その姿に慈雲慈雨はいつまでもあまねく降り注ぐ、そこにどんな命の姿が出てくるだろうか・・・命はその慈愛の真心にいつも偉大な見守りを感じています。私たちが見守ることが大切なのは見守られていることを自分自身がいつも忘れないためでもあります。

子どもたちが多様多彩に自分らしくそれぞれの命を燃え盡すためにも、引き続きこの世の刷り込みを一つ一つ丁寧に取り払っていきたいと思います。見守る実践を心新たに深めていきたいと思います。

 

主燈明

この世に死なない人がいないように必ず形あるものは消滅していきます。自然でも同じく、いくら固い石であろうが鉄であろうが時間が経てば必ず風化して消滅していくものです。これは今の国家であっても世界であっても時代時代で必ず消えていくものです。

必ず消滅すると知るのなら、執着しているものの全ては消えてほしくないと願っている私たちの心でもあります。あるものを保とうとするのは意識から細胞にいたるまで自己防衛本能の根本でもあります。しかし消えてしまうものを無理に消えさせまいと自然の摂理に反していたらその歪から変化することを抑え込もうや変化することを避けようなどという不自然なことをやってしまうものです。

例えば、川の流れで水をいくらせき止めてみても水は増え続けて流れようとするものです。堤防が大きくなってみても雨の量や風化のスピードは抑えようもありませんから必ずその堤防は決壊して変化の流れは誰にも止められません。

だからこそ人はその変化を受け容れて、その自然万物が消滅することを知りそれが少しでも永く継続維持できるように努めていくのでしょう。変わることを受け容れる人だからこそ今あるものをもったいなく感じて大切にしていくことができます。

人間は自然の摂理において淘汰されるはずのものでも、いつまでもみんなが守り大切にすることで生き続けていく文化として子孫へ継承されていくようにも思うのです。

仏陀は2500年前に自燈明・法燈明という言葉を遺しました。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と解釈されます。これは私たちでいえば組織に頼らず、内省を怠らず、理念(初心)を拠り所にして実践していきなさいという言葉になります。

変化していくというのは言い換えれば諸行無常ということです。変わらないものはなく、いつまでも今のままであることは続きません。だからこそどんな変化が訪れても理念(初心)を拠り所にして内省を怠らず、自分自身の心に意見をして歩んでいく必要があります。変化はいついかなる時も已むことはありませんから、常に人は日々に理念や初心を確認して自らがズレていないか、自分の心が変化に流されていないか、その変化に気づき心を常に原点回帰しているかと一歩一歩歩むたびに自らを省みる必要があります。

そうやって自分の心の主になることを自燈明といい、理念の主になることを法燈明になると私は思います。主体性というものは、自らの積極的な自燃力によって命を熾すこと、決して時と他人の奴隷になるなということでもあります。それを私は「主燈明」と名付けます。禅語でいうところの主人公のようなものかもしれません。

主は誰か、主とは何か、ひょっとすると仏陀はそれを生き方で示した方だったのかもしれません。

引き続き、私たちは子どもたちの主体性を守る仕事しているのだから自分自身が主体性を発揮して変化の中で何を守り何を守らないかを実践して子どもたちに主燈明を通してその背中を見せていきたいと思います。

道中日記

中国の格言に「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史になる。50年、神の如し。」というものがあります。これは決心したことをそのままに継続ができるのなら、以上のようになりますよという事実が説かれているものです。

これは力の本質を語る言葉ですし、すべての偉大は日々の偉小の積み重ねにおいて行われることを語るものです。二宮尊徳に積小為大という言葉もあります。日々の進歩や進化、改善や探求や実践が時を経てそれがすべてを動かす力の源であるということです。その力の源は「楽しい」ということです。

物事は日々に深めていると次第にそれそのものが楽しくなってきます。楽しいと思えるように本気で楽しいことに取り組んでいると次第に発見が多くなりもっとそれを探求してそのものに辿り着きたいと思うようになります。好奇心とも言いますが、飽きっぽいものは決して好奇心というものではなくそれは単に知識欲が旺盛ということで本当の楽しみは同じものを見ても毎日同じに見えないという「変化」を楽しむことができるということです。

日々に実践していくとそれまで知らなかったこと、わからなかったこと、わかった気になっていたことに気づきます。「おお、そうだったのか!」と驚きまたそのことがもっと知りたくなってきます。知ることが楽しくなっていくのです。そうすれば単にわかることが目的ではなく、もっと本当のことが分かりたいというまるで自然の妙味や宇宙の真理にも近づいていくかのようにドラマが生まれワクワクドキドキが止まらなくなるのです。

好奇心というものは、人が道を求め道を歩むときに必ず隣に有るもののように私は思います。

二宮尊徳は「知れたることを知って行ふは聖人なり、知らざることを知れというは小人なり」という言葉を遺しています。なんでも即席栽培のように速成をしようとする昨今の風潮がありますが、本来はじっくり醸成し凡事を非凡に徹底することの真価を身近な大人たちが示していることが大切ではないかと私は思います。

一つの道を極めていくのは、長い年月が掛かります。言い換えれば長い年月を掛ける価値はその人の日々の進歩に懸っているとも言えます。大きな目標ばかりを追い求めては今やるべき目の前のことには心を籠めないでは本末転倒です。

一つひとつの頂いた機会を如何に活かすか、それはその人がどれだけ日々の実践を徹底しているかに由ります。水脈にあたるまで井戸を掘り続け、山になるまで土を盛り続けるように弛まず諦めない根気がいります。

しかしその夢が大きければ大きいほど、周りの人には馬鹿にされるような小さなことをやり続けることになるものです。そういう真実に対して愚直に実践するものを私も聖人と呼びます。いつまでも知ってもやろうとしない人たちが変わらないのです。

目指す頂は壮大でとても自分一代では不可能だと思えます。しかしそれでも人類を愛し、人間を信じるからこそ諦めたくないと思います。

このブログも私にとってはその進歩を遠方の朋と味わう工夫であり楽しさを弘める道中日記のようなものです。

引き続き子どもたちのためにも、自然の恩恵の中で感謝報恩で生きていく仕組みを時中に合わせて開発していきたいと思います。

 

心田を耕す

心田という言葉があります。これは心の田んぼのことを言います。二宮尊徳は心田開発とも言い、また心田を耕すといいました。この心田の「田」とはどのようなものかということを少し深めてみます。

自然農の田んぼで昔ながらの農法を実践していればすぐにわかるのですが、田んぼがちゃんと田んぼであるのは人の手で手入れを行っているからです。畔の管理から草の管理、その他、田んぼに稲が育つようにその環境に相応しい場を見守り続けていきます。これは畑も同じく、作物を育てるためには育てる作物に応じて適切な場所や適当な広さ、または必要なら畝をつくり水切りし、太陽が届くように周りの木々を剪定します。

このように手入れをすることではじめて田も畑も私たちが暮らしていけるように順応してくれるとも言います。ここで大切なのは放置しないということです。自然農の田んぼで人手が足りず一つの場所だけは放置しているところがあります。そこはもう人の手が入らず自然そのもので雑木林のようにススキやセイタカアワダチソウなどで畑とは呼べるようなものではありません。手入れを怠り数年経てば、野生のままに回帰していくということです。

二宮尊徳は心田についてこう語ります。

「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまき広めることにあるのだ。」

「そもそも我が道は、人々の心の荒蕪を開くのを本意とする。一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうとも恐れるものはないからだ。そなたの村は、そなたの兄ひとりの心の開拓ができただけで、一村がすみやかに一新したではないか。」

田んぼの手入れを怠れば田んぼは自然の摂理で野性地に戻ります。しかし人間が手入れをすれば耕作地となり私たちが生きていくための「保育地」になります。これを人の心に置き換えるのなら、私たちが心の手入れを怠れば人間も野性に戻ります。場合によっては動物のようになり理性が失われ本能だけのものになります。しかし心を正しく手入れをしていけば人間が育成され自然の恵みに感謝して共に助け合い暮らしていくための思いやりのある道徳社會ができてきます。

つまり心田の手入れとは何をいうか、それは我慾を制し、己に打ち克ち、自らを律し、感謝の心を育て、恩に報い、周囲を見守ることに似ています。そして心田を耕すとは、その荒れ果てて欲望のままに野生化した人の心をもう一度手入れをすることの大切さに気付かせそれを一緒に直し、直したらまた荒れることがないようにと手入れを怠らない工夫を人々に与えていくことです。

そうやって心田を耕すことで人ははじめて自然の叡智を得た人間の智慧を持ったことになります。何もしなければ自然のままに壊れていくのが天理ですから、その天理の道理を悟り、人道はその壊れていくものを壊れないように手入れをしその自然からの恩恵をいただき生きていくという人間本来の姿に回帰していくということです。

今は田んぼを耕すのは農家の仕事としてあまり周りの人たちには馴染みがなくなってきましたが、本来は自然の恵みを受けてそれを感謝でいただいて暮らしていくという人間本来の営みは農家に限らずこれは人類が今まで生き延びてきた由来であり由縁であるのです。自然の恩恵をいただき自然と共に暮らしていくことこそ迷いなく人間が生きるためのたった一つの悟りです。

もう一度、心田を耕すことを思い出し原点回帰する必要を感じます。

引き続き、子どもの傍にいて心の手入れを行うとはどういうことか。その手入れ方法を人々に伝授し、私も尊敬する二宮尊徳のように自然から学び直したことをカタチにして心田を耕すことに生涯を捧げていきたいと思います。

 

時間をかける

人は何に時間をかけるかで何を信じているかというものが顕れてくるものです。私の会社も子どもの憧れる会社を目指そうとしていても、それが1年や2年で突然できたのではなく十数年も時間をかけてそれが実現してきています。

言い換えるのなら、時間をかけたことで実現したとも言えます。この時間をかけるというのは、時間が応援してくれたということでもあります。初心や信念は時間という支援のもとに醸成されていきます。

それは例えば、まるで酵母が発酵してお酒を醸成するように、まるで種から芽が出て木が大きくなり花が咲き実がつくように時間をかけることで実現するのです。今ができないからとか、今がそうでないからと嘆く前に、何に時間をかけるかをまず定めることが理想を実現するシンプルな方法だと感じます。

時間をかけるというのは、信じて待つということです。この信じて待つというのは、理想を諦めずにその理想に向かって実践を継続していくということです。なりたい自分やありたい自分、何のためにという本質に向かって自分自身が信じ続けるということです。

世間では信じるということがよく理解されておらず信じるか信じていないかと二元論で語られ信じるということの刷り込みに分からなくなってしまうようにも思います。この時間をかけることが信じて待つことであるということに気づけば、後は天にお任せして人事を盡すという心境になると思います。

時間をかけることの価値は、自分の力ではなく多くの御蔭様、また他力の有難さによて事が成就していくという真実に現実を合わせていくことのように私は思います。自然農でも自然発酵でも、伝統においても共通するのはすべてはこの「時間をかける」ということにおいて実現しています。

一度きりの人生だからこそこの時間をかけるという価値に気づく必要があると思います。便利に思い通りにいくことが最良だと思われている昨今において効果効率を優先する思考が根付いてしまえば時間短縮が価値のように思われていますが本来の豊かさや価値は時間をかける中にあります。

これからも時間をかけて信じて待つことを子どもたちに譲っていきたいと思います。

学問求道の背中

先日、ある人から「やっている仕事がすごく楽しい」と言われ天職に巡り合えてよかったですねと答えました。その人はもう数十年も歯科衛生士として勤めている方で、色々と学んでいるうちに様々な場所や先生とまた技術や人ともお話ができて嬉しいと仰っていました。私も以前、患者として関わった時に色々とお話をしましたが雰囲気や表情などに丸みが出ており以前より和やかに楽しく働いている様子に居心地がよくなりました。

人が自分が求めていることが深まっていくというのは、自分の道を深めているということです。どんな山に登るか、どのように川を渡るかはその人の決めた生き方が左右してきます。結果云々ではなく、その道の歩み方に人生の生き方があるように思います。今いるところを深掘っていく人はその道を深めていく人です。どんな境遇でどんな場所にあろうが、自分から学びその意味や価値を深める人は常にその場所で必要なことを学びそれを自他のお役に立てていくことができます。

吉田松陰が野山獄で獄中にあっても『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み囚人達は互いに教え、学び合い、まさに楽しい学舎になりました。これも同じく道を深めている人の傍はいつも学ぶ楽しみや悦び、仕合せに溢れています。しかし同時に、学問の道を志していない人や感化されない人は自分の境遇を自分で憐み、結局は何も学ぼうとしません。獄中に吉田松陰があっても学ぼうとしない人もまた多くあったかもしれません。

通常であれば自分の境遇に嘆き心が腐るところをこういう境遇こそが自分を磨くという発想の転換ができるのは、吉田松陰は生きた学問をしていたからと言えます。王陽明による事上錬磨、また知行合一もまた体験こそを学びにして深く味わい意味をつけていくという実践を怠らない、つまりは本物の学問を志したからでしょう。

知識だけで学んだ気になっているのは学問をしているのではなく、学識をただ蓄えているだけです。至誠と実行というのは、理屈ばかりに人間になるのではなく世の中を動かす人物になれということです。

今では就職活動などもそうですが、就職することが目的になり、もしくはキャリアだけが目標になり、自分にマッチングするかで転職する人が増えているように思います。転職ではなく天職を全うするような生き方を示す大人も先輩もまた減ってきているのかもしれません。

若い人が自分の人生を迷わないように、私の尊敬するメンターのように学問を求道する背中を子どもたちに見せていきたいと思います。今いるところにこそ本当の先生があり、今いるところの足元の深いところに真実があることを自らの実践と内省により伝道していければと思います。

 

立場

人はお互いに立場で関わると本来の平等な関係が築きにくくなるものです。例えば、上限関係や父と子、兄弟、師弟など、それぞれの立場を優先すればやってもらって当たり前と勘違いすることがあります。これは刷り込みで、お互いの立場を思いやり助け合っていけばいいのですが実際は立場でのみ相手と関わると大切な感謝の心が通じ合わないことがあります。

立場というのは、損得や利害が入ってくるものです。自分の立場が崩されないようにと、自分を中心に損か得かになれば感謝の心は入りません。本来、関係性というものはお互いに必要で大切だから感謝しあっているものです。しかしその前に立場を持ってくればやってもらって当たり前などというごう慢な気持ちが出てくるのです。

例えば何かをするときに「自分がただそうしたかったから」と思って見返りも求めず、認めさせようともせず、恩を着せようともしなければ相手も立場などを気にしません。しかし「自分はここまでしてやったのに」と思って見返りを求めればすぐに立場が入り込み人間関係にヒビが入ってくるものです。この立場を利用するというのは、自分の立場、その立ち位置ばかりを優先して行動しているときに出てくるものです。

よく考えてみればすぐにわかるのですが、心配すべきは自分の立場ではなく相手の立場を考えてあげることです。それが思いやりだとも言えます。どうしても自分の立場ばかりを考えて行動してしまえば、思いやりに欠ける言動が相手を傷つけてしまうことがあります。

特に立場が上だったり、立場が優位にある人はいつもそうではない人の立場を慮り配慮することで相手の立場を理解して思いやりが欠けないように気を付ける必要があると思います。それがお互いに一緒に尊敬し合う関係を築いていくことになるからです。人間関係が睦まじくなれば、共に生きていくことが楽しくなり仕合せになります。

身内であったり、友人であったりすればなおさら甘えからその配慮は欠けてしまい自分の立場ばかりを守ってしまうものです。思いやりや優しい人になるためにも、感謝と尊敬の念を忘れず、相手の立場をまず考える人になりたいと思います。

人間関係は自分の利他心を磨くものだから、引き続き自ら省みて行動に換えていきたいと思います。

 

地球の一部

当たり前のことですが私たちは地球の一部であり、人間だけが地球から離れている存在ではありません。地球を守るとか言いますが、それは刷り込みでおこがましく本来は地球に守られているのが私たちの存在です。

気候変動やマグマの活動、地震活動や海流の変化はすべて地球の生成によって行われます。いくら原子力があろうが、宇宙船をつくろうが、そんなものは地球規模の活動においてはまったく意味をなしません。人間は地球から離れて地球の一部であることを忘れれば忘れるほどにごう慢になってきます。

例えば、絶滅種を守ろうとかエコ活動をしようとかいいますがどれも人間都合で考えられるものです。本来の地球の一部として謙虚にいるのなら、御蔭様に感謝しつつ畏敬の念をもって地球の一部として暮らしていくものです。

この先、どのようなことが起きるとしても地球の一部であればまた時間が経てば再生して地球と共に変化成長を続けていきますがそこから離れているのであれば再生することはありません。

私たちは生き死にをゴールだと設定しようとしますが、本来は継続していくことにゴールを設定しなければなりません。それは人間や自分を中心にするのではなく、地球の一部であることを謙虚に受け止めているからです。

長い目で観た時、私たちの存在は一瞬です。その一瞬を生き延びようとすることが大事なことではなく、永遠に生きるために如何に地球と共に発展していくか、地球と一緒一体に暮らしていくか、その適応を求めていく必要があります。多様性も然り、協調性も然り、全ては地球の一部として存在するための叡智なのです。

人間だけが世界でもなく、人間の生きているところだけが全てではない。いくら火星にいこうが月にいこうが、そこから地球を観れば自分たちが地球から離れることができないことを人類はただ悟るだけです。

地球というものと一緒に歩もうとするものには、心の安らぎと魂の救済があるように私は思います。引き続き、先々のことを予見しつつ今はただ磨くことのみですがその生き方を未来のために定めていきたいと思います。

聴くことは福である

人はお互いに言葉を交わし心を通じ合わせることでお互いのことを理解して社會を形成していく生き物です。しかしうまく心が開けなくなりお互いに誤解を生み、心が通じ合わせにくくなることもあります。

人の心は正直で、心を通じ合わせることは時には傷つき時には勇気が必要になります。自己防衛から余計に心を閉ざして相手の心との通じ合いを避けてしまえばそれ以上相手との距離は近づくことはありません。自分の本心や本音を交わせなくなればお互いに探り合ったり読み合ったりする関係になってしまいます。そうなると本当の意味でお互いが素のままになることはなく、お互いに思い込みや先入観、色眼鏡をかけて相手をつくりあげてしまうことになりさらに対話が難しくなるものです。

私は社業で聴福人というものを実践し、それを世の中へ広げています。これは相手の話を聴くということが福になるということです。そして本来は、聴くことで福が訪れそうやって互いに協力し合っていく生き物が人であるという意味です。

相手を思い込む前によくお互いの話を聴いてみるというのは、コミュニケーションの方法論よりもとても大切なことです。勝手に自分の思い込みで相手を判断するのは、自分にとって都合が悪かったりするからです。本来のその人に何か理由があるのだろうと相手を思いやり、事情を汲んであげて相手の心に共感することではじめて人は心を通じ合わせていくことができます。

自分の都合の悪いことは聞かない、自分にとって都合の良い人になってもらおうとするのは相手を心底認めているわけではありません。どのような人物で何を大切に思っているのか、または自分にはない尊敬する部分がどこにあるのか、他には自分以上に自分のことを心配してくれているとか、相手の素晴らしいところを沢山見出していくことがコミュニケーションをしていく上で何よりも大切なことなのです。

対話は二元論でどちらかに偏ってはできませんから、私は一円観といい〇の中で偏らずにみんなで大切なものを味わっていくという仕組みを用います。これは都合を排除し、全部丸ごとで傾聴するというやり方です。

人は自分が否定されているとか、相手を認めないという姿勢では人の話は聴けません。人の話を聴くというのは、絶対肯定されていることと、お互いに認め合っている場があるということが大前提です。

人間が仲良く思いやって暮らしていくことができれば、そこには楽しい場が生まれます。場が生まれればその居心地の良さに心が歓びます。引き続き、聴福人の実践を子どもの現場に弘めていきたいと思います。