昨年は伝統を通して、本来の姿を見つめた一年になりました。かつての先祖たちがどのように暮らしてきたかを知れば知るほどに自然と一体になり、自然に親しみ、自らを慎み、素直に謙虚に生きてきた様子に日本人本来の当たり前の姿を観た気がします。
昨年はもののはじまりを知るがテーマでしたが、すべての物事には起源がありその本質を見極めれば何が異常で何が正常であったかがわかります。今の世に照らして、正常が何であるかをつかむというのは本質的に生きていくことを大切にしていく上では何よりも重要な実践項目になります。
先日、熊本県八代市のい草農家の草野様が聴福庵に来庵した際に「こだわり」と「当たり前」についてのお話をしてくださいました。
草野様が見守り育てているい草は、品質、出来栄え共に「本物」で熊本でも有名で若い人たちの指導もなさっているそうです。そのい草を聴福庵に入れましたがその輝きや美しさ、また触り心地などすべてにおいて素晴らしく、い草本来の徳が引き出されているように感じます。
この草野様のい草づくりはとても手間暇と丹精を籠めてあり、通常ではここまでやるかというくらい徹底して丁寧に育てられているそうです。それを見た周りの人たちは「あそこまでこだわれない」とか「草野さんのこだわりはすごい」などと評するそうです。
しかし本人は「こだわり」だと言われるのは好まず、これは「当たり前」のことだといいます。このこだわりと当たり前の間には、異常と正常の違いがあるのです。
今では心を籠めないで頭でっかちに計算をして取り組むことの方を当たり前だとなってます。しかし古来のように丹精を籠めて丁寧に心を使い手間暇をかけることはこだわりだと言われます。私も様々なことを徹底して実践するタイプですから周囲からはこだわりが強い人だと言われます。しかし私自身は同じくこだわっているのではなく、真心を用いるのは当たり前のことなのです。
メンターと共有した今年のテーマは「常」です。つまりは「平常心で心を乱さない、心のままでいること」です。
常は平ともいい、その常とは平常心のことです。これは心のままでいる、本質が観えてきているから、表面的なものにあたふたしないで心のままであり続けます。心の世界で取り組むのならば常に本質を維持できますが、心から離れればすぐに本質がブレてしまいます。
本当のことや本物にこだわるのは、それがかつては当たり前であったからです。そしてそれが今、最も危うい状況になっているからです。作物を育てるのも人を育てるのも心を用います。心があるからこそ理に適います。つまり「心即理」なのです。
だからこそ今年はその当たり前をさらに深めて、こだわりとか当たり前とか区別されないくらいの自然な姿に私自身近づいていきたいと思います。子どもたちが何が当たり前であるかに気付けるように平常心を大切に取り組む一年にしていきます。
今年もよろしくお願いします。