自分磨き

先日、いつもお世話になっている恩人の方々と一緒に古い木製品や古鉄の道具の手入れを行う機会がありました。蜜蝋や椿油を用い、一つひとつを磨いていくのですがそのものを磨くうちに無心になってきます。この無心とは何か、それは考えなくなるということです。考えなくなるというのは空っぽになること、それまでの知識や教養などを用いずにそのものと一体になっていくということです。

磨くという行為は、それまでの刷り込みや知識を捨て去っていくことに似ています。分類分けされた知識は、複雑だったものを単純にしましたが実際には自然と同じように複雑ではないものは何一つありません。天気一つとってみても、今は天気、曇り、雨、などで分類しますが一日とて同じ天候の日はありません。複雑に変化している気候を観るのは知識分類知を用いず、無心になって触れてみるしかないのです。

そして一緒に磨く面白さは心が通じ合うところにあります。一人で無心になるのも楽しいことですが、一緒に無心になるのはかえって考えない空っぽのところに自分たちを置き、その中で感じることを語り合いますから居心地がいいのです。

暮らしの中で共に生きるうちにお互いの本心に触れ合う気がして、その合間の寛ぎが心地いいのです。

人間は心を用いていくことで頭で考えてしまう知識を離れていきます。今は知識を用いてから心を使おうとしますが本来はそんなことはできるはずがありません。それは心ではなく知識なのです。心を使うのは、まず心を用いてそれに知識がついてくるのです。頭で考えた心配などなく、頭で考えた配慮などもなく、頭で考えた共感などはないのです。

だからこそ、心を用いる作業を一緒にやりながらその心を磨いていくことは感謝で生きてきた先祖との触れ合いになります。特に手作りで大切に扱われ、時代を越えて経年変化を続けている道具を触るとその時代から心を用いて大切に扱われてきた道具と人との関係性に触れます。道具によって自分が磨かれ、自分が磨かれることで道具が磨かれるのです。

手入れというのは、頭入れとはいわないのはまずは手間暇をかけること、その労力と時間を用いることで心が入るということです。自分が労力をかけて苦労することが何よりも自分磨きになります。

引き続き、磨く仕合せ磨く喜びを体験しながらまた一緒に磨いてみたいと思います。