生業という言葉があります。これは「なりわい」や「せいぎょう」とも呼ばれます。生活を営むための仕事という意味でもあり、暮らしをするためのものとも言えます。
今ではあまり使われなくなったこの生業という言葉ですが、とても大切な価値を持っています。世間では一括りに仕事といい、就職と書いて職に就くといいます。そのうちプライベートと仕事を分け、本来分かれていなかったはずの人間の暮らしが消失していくのは残念なことです。
この生業というものを改めて定義し深めてみようと思います。
そもそも生業というものは、自然におけるあらゆる生き物たちはすべて持っているものです。さらにいうのなら、地球の活動は生業の中心とも言えます。その地球の活動は、マグマの活動や気候変動、宇宙との調和にいたるまで休むことはありません。
そして自然では、その地球の生成と共に生き物たちも一緒一体になって生成を已みません。私たちの身体はその宇宙や地球の一部として機能しており、生きていくためには自然と共生していかなければ生きていくことすらもできません。たとえ地球をロケットで脱出しても私たちは地球の営みで行われた食べ物や着物、道具を使わなければ宇宙に存在していくこともできません。つまりはそれが生業(生成)というものです。
生業を勘違いしてただ生活のためで価値が低く、仕事は世の中のためで価値が高いということを言う人がいますがそれは刷り込みだと私は思います。生活とはすべての生物たちの根本でありもっとも尊いものです。いのちが生まれて死ぬまでに私たちは生成を已みません。その生成をどのように行っていくか、それは自然に沿って暮らしていく人と、自然から離れてしまい暮らしを亡くしていく人がいるだけです。
私たちはこの暮らしを通して生成されているのだから、もっとも大切なのはその生業生成をどのように生きていくか、つまり生き方と働き方は分けることなど不可能なのだから暮らしを通して自分たちがどのような仕事をしていくかの両輪をちゃんと組み立てなければならないのです。
私は会社生活において様々な暮らしの実践を行いつつ、遊んでいるように働いているといわれますが本来、暮らしとは自然に寄り添いながら文化を味わいその生成を活かし続けることにあると私は思います。私たちは生業の背景にある生き物たちの生成の御蔭様をいただいて生きて活かされていることを決して忘れてはなりません。
そしてこの生業のことを私は神業と定義しています。
この奇跡のような日々の中でどのように生き活かされていくか、それは本来の生業にどれだけ自然から学び直し近づいていくかによります。引き続き、自然淘汰の中で遺る文化と寄り添い、自然農や自然養鶏、様々な自然との暮らしを味わい、自然生業のなせる神業に近づいて本来の仕事、本物の仕事を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。