心田という言葉があります。これは心の田んぼのことを言います。二宮尊徳は心田開発とも言い、また心田を耕すといいました。この心田の「田」とはどのようなものかということを少し深めてみます。
自然農の田んぼで昔ながらの農法を実践していればすぐにわかるのですが、田んぼがちゃんと田んぼであるのは人の手で手入れを行っているからです。畔の管理から草の管理、その他、田んぼに稲が育つようにその環境に相応しい場を見守り続けていきます。これは畑も同じく、作物を育てるためには育てる作物に応じて適切な場所や適当な広さ、または必要なら畝をつくり水切りし、太陽が届くように周りの木々を剪定します。
このように手入れをすることではじめて田も畑も私たちが暮らしていけるように順応してくれるとも言います。ここで大切なのは放置しないということです。自然農の田んぼで人手が足りず一つの場所だけは放置しているところがあります。そこはもう人の手が入らず自然そのもので雑木林のようにススキやセイタカアワダチソウなどで畑とは呼べるようなものではありません。手入れを怠り数年経てば、野生のままに回帰していくということです。
二宮尊徳は心田についてこう語ります。
「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまき広めることにあるのだ。」
「そもそも我が道は、人々の心の荒蕪を開くのを本意とする。一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうとも恐れるものはないからだ。そなたの村は、そなたの兄ひとりの心の開拓ができただけで、一村がすみやかに一新したではないか。」
田んぼの手入れを怠れば田んぼは自然の摂理で野性地に戻ります。しかし人間が手入れをすれば耕作地となり私たちが生きていくための「保育地」になります。これを人の心に置き換えるのなら、私たちが心の手入れを怠れば人間も野性に戻ります。場合によっては動物のようになり理性が失われ本能だけのものになります。しかし心を正しく手入れをしていけば人間が育成され自然の恵みに感謝して共に助け合い暮らしていくための思いやりのある道徳社會ができてきます。
つまり心田の手入れとは何をいうか、それは我慾を制し、己に打ち克ち、自らを律し、感謝の心を育て、恩に報い、周囲を見守ることに似ています。そして心田を耕すとは、その荒れ果てて欲望のままに野生化した人の心をもう一度手入れをすることの大切さに気付かせそれを一緒に直し、直したらまた荒れることがないようにと手入れを怠らない工夫を人々に与えていくことです。
そうやって心田を耕すことで人ははじめて自然の叡智を得た人間の智慧を持ったことになります。何もしなければ自然のままに壊れていくのが天理ですから、その天理の道理を悟り、人道はその壊れていくものを壊れないように手入れをしその自然からの恩恵をいただき生きていくという人間本来の姿に回帰していくということです。
今は田んぼを耕すのは農家の仕事としてあまり周りの人たちには馴染みがなくなってきましたが、本来は自然の恵みを受けてそれを感謝でいただいて暮らしていくという人間本来の営みは農家に限らずこれは人類が今まで生き延びてきた由来であり由縁であるのです。自然の恩恵をいただき自然と共に暮らしていくことこそ迷いなく人間が生きるためのたった一つの悟りです。
もう一度、心田を耕すことを思い出し原点回帰する必要を感じます。
引き続き、子どもの傍にいて心の手入れを行うとはどういうことか。その手入れ方法を人々に伝授し、私も尊敬する二宮尊徳のように自然から学び直したことをカタチにして心田を耕すことに生涯を捧げていきたいと思います。