中国の格言に「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史になる。50年、神の如し。」というものがあります。これは決心したことをそのままに継続ができるのなら、以上のようになりますよという事実が説かれているものです。
これは力の本質を語る言葉ですし、すべての偉大は日々の偉小の積み重ねにおいて行われることを語るものです。二宮尊徳に積小為大という言葉もあります。日々の進歩や進化、改善や探求や実践が時を経てそれがすべてを動かす力の源であるということです。その力の源は「楽しい」ということです。
物事は日々に深めていると次第にそれそのものが楽しくなってきます。楽しいと思えるように本気で楽しいことに取り組んでいると次第に発見が多くなりもっとそれを探求してそのものに辿り着きたいと思うようになります。好奇心とも言いますが、飽きっぽいものは決して好奇心というものではなくそれは単に知識欲が旺盛ということで本当の楽しみは同じものを見ても毎日同じに見えないという「変化」を楽しむことができるということです。
日々に実践していくとそれまで知らなかったこと、わからなかったこと、わかった気になっていたことに気づきます。「おお、そうだったのか!」と驚きまたそのことがもっと知りたくなってきます。知ることが楽しくなっていくのです。そうすれば単にわかることが目的ではなく、もっと本当のことが分かりたいというまるで自然の妙味や宇宙の真理にも近づいていくかのようにドラマが生まれワクワクドキドキが止まらなくなるのです。
好奇心というものは、人が道を求め道を歩むときに必ず隣に有るもののように私は思います。
二宮尊徳は「知れたることを知って行ふは聖人なり、知らざることを知れというは小人なり」という言葉を遺しています。なんでも即席栽培のように速成をしようとする昨今の風潮がありますが、本来はじっくり醸成し凡事を非凡に徹底することの真価を身近な大人たちが示していることが大切ではないかと私は思います。
一つの道を極めていくのは、長い年月が掛かります。言い換えれば長い年月を掛ける価値はその人の日々の進歩に懸っているとも言えます。大きな目標ばかりを追い求めては今やるべき目の前のことには心を籠めないでは本末転倒です。
一つひとつの頂いた機会を如何に活かすか、それはその人がどれだけ日々の実践を徹底しているかに由ります。水脈にあたるまで井戸を掘り続け、山になるまで土を盛り続けるように弛まず諦めない根気がいります。
しかしその夢が大きければ大きいほど、周りの人には馬鹿にされるような小さなことをやり続けることになるものです。そういう真実に対して愚直に実践するものを私も聖人と呼びます。いつまでも知ってもやろうとしない人たちが変わらないのです。
目指す頂は壮大でとても自分一代では不可能だと思えます。しかしそれでも人類を愛し、人間を信じるからこそ諦めたくないと思います。
このブログも私にとってはその進歩を遠方の朋と味わう工夫であり楽しさを弘める道中日記のようなものです。
引き続き子どもたちのためにも、自然の恩恵の中で感謝報恩で生きていく仕組みを時中に合わせて開発していきたいと思います。