視野を高める

松下幸之助さんの言葉で「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。」とあります。これは以前のブログでも書きましたが、視野が狭いというのは物事の見方が自分の視界でしか見えていないということもでもあります。先入観や思い込み、他人の話に耳を傾けず自分の価値観の正否のみで物事を解釈する傾向が強いということになります。

例えば、どう考えても全体が観えたり多面的に客観的に長期的に観ている人から見ればとても可笑しなことをしていると観えていても本人は気づかないものです。自分の中で行き来するだけで他人に意見を求めなくなると人は自分の中で出てくる正解がすべてだと妄信するものです。

他人の評価を気にする人ほど心を閉ざし、心を開かないから人の話を素直に聴くことができません。周りから自分がどう思われるかばかりを気にしていて周りに合わせて自分の本心がバレないようにと保身をしている人は視野が狭くなっていきます。

視野の狭さの理由として、自分がどう思われたいかという自分の理想像の価値観を周囲に押し付けようとしたり、もしくは自分がこうありたいと思っている姿で見られたいという自分の願望もまた視野の狭さの原因になっています。

自分の価値観の基準か、他人の評価の基準を気にして自分の心と向き合わないで生きていくとそのうち自分の心のことが分からなくなります。これもまた視野の狭さとも言えます。自分がどうしたいかがわからないのは、いつまでも他人を基準にして生きていくことが沁み付いているからです。これは過去の歪んだ個人主義の影響を受けていることも一因になっています。つまり、自立の定義が自分ひとりでなんでもできることだと思い込んでいるからです。そして自分ひとりでできるというのは、これもまた周りの評価を気にする原因にもなります。

そして周りからどう思われるかを過度に意識すると自分らしくいることができません。日ごろそうやって我慢をしていて突然思い切って本心を明かすと周りが過剰に反応して余計な問題が起きてしまいます。だからまた心を閉ざして隠すという悪循環を繰り返してしまうようにも思います。

それを好いことに転じるには、一つは自覚すること。もう一つは、協力することのように思います。自覚は、自分で自分を理解すると自分の特徴が素直に理解できていきます。あるがままの自分が認められると、無理を押し通すことも少なくなっていくからです。そして人間社會は決して一人で生きていくわけではないのだから協力すればその中で自分の持ち味を発見しそれを仲間の中で発揮することにもなったりするからです。

視野の狭さは転じれば天才的集中力であり、視野の寛さは天才的調整力になります。一人では完結できないのが人間ですから、自分にしかできないことを発見し、自分のあるがままでもみんなの力になれるように助け合い思いやることで視野を高めていくことができます。

視野を高めるにはまず自立の定義を換えてしまわなければなりません。自立とは一人でできることではなく、本来の自立とは周囲の人たちに感謝し御蔭様の心で常に助け合いいつも思いやることができることであるということに意識を換えるのです。

視野を高めるというのは、自他を認めそのままあるがままがいいとそのものの価値を丸ごと認識することです。そのまま活かそうとするところに人間の叡智があるように思います。

刷り込みで苦しんでいる大人たちが多いからこそ、子どもたちのためにも自らの視野を高めていきたいと思います。

本当の失敗とは何か

人は失敗をすることで成長していきます。成功か失敗かの二元論で育ってきてしまうと極度に失敗しないでいよう、優等生であろうとするものです。特に失敗をキャリアに傷がついたと思っている人は、結局は何もしようとはしなかった人ということになります。

失敗の御蔭で人は自分の間違いに気づけます。本来は失敗か成功かではなく、その後の方が大切だということです。ある人は失敗してもそこから学び、それを糧に次の挑戦に活かす人がいます。またある人は成功してもそこに奢らずに謙虚に成功が失敗ではなかったかと自分を戒め一つ一つを大切に積み上げていく人もいます。

また反対に、失敗をしなかったり、成功したらそれっきりになったり、それが本当の意味の失敗であることには気づかずにいつまでも変わらない人もいます。変化というものは、学び続ける姿勢であることでありそれは失敗か成功かに一喜一憂するようなことではないのです。

新しいことに挑戦するのは確かに不安ですし時折怪我をするものです。しかし何度か繰り返しているうちに「コツ」が次第に掴めてくるものです。それと同時に、自分の何が間違ったのかという自分自身にある癖に気づけるのです。例えば、事前準備をいい加減に済ませてあとからそれを修正するのに時間がかかる癖があるとか、集中力が途切れるとすぐに雑になってしまう癖とか、失敗を通して自分の至らなさに気づけるものです。また同時に失敗から立ち上がることで、自分の中にある信念や奥行きに気づき、自分にはこんなに諦めない癖があったのかと感心したりもします。

つまり人間はみんな、この失敗と成功の体験を通して学ぶのです。学ばないことがもっとも勿体ないことであり、それは失敗も成功もせずに無難に何もしないでいることのようにも思います。

考えて何もしないよりは、実行してみて考える方が学びが深くなりますしその方がワクワクドキドキと心が動き続けます。この逆にある格言に「失敗する人には二種類ある。考えたけれども実践しなかった人と、実践したけど考えなかった人だ」とあります。どちらも失敗なのは、学ばなかったということでしょう。

失敗は何か大きな出来事によって決まるのではなく、日々を学ぼうとしないことによってすり寄ってくるように思います。学ばない日はすでに失敗だとしたら、何もしない何も考えない日こそ失敗であったとも言えます。

成功や失敗の二元論ではない成功とは、日々に学び続ける積極的人生を送るということです。それは失敗を恐れずに挑戦するということです。そして挑戦とは失敗した後にやってくるものですから挑戦し続けるというのは失敗し続けるということです。

最後に本田宗一郎の言葉です。

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そして、その実を結んだ1%の成功が現在の私である。私の現在が成功というのなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。私の仕事は失敗の連続であった。」

「失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。」

失敗の中に真の価値があると、この失敗しないことを畏れようとする心が人を積極的に甦らせ活きらせるように私は思います。子どもたちのためにも失敗から学ぶ姿を示していきたいと思います。

奥深さの感性

先日、ミマモリストのブログに「物事の深さ」に気づくことで未熟さが分かったとありました。人間が今に変化をし続けていくことは、この奥深さを知り続けるのようにも私は思います。

この奥深さについて少し深めてみようと思います。

「奥深い」を辞書でひくと「表から遠い。また、ずっと奥まで続いている。」「意味が深い。簡単には究めがたい。」とあります。言い換えるのなら、分かることがない世界とも言えます。知識では知りようがない場所、到底辿り着けようのない次元のようなものです。例えるのなら宇宙の果てのようなところが奥深いところというのでしょう。

この奥深さは知れば知るほどに自分の未熟さが分かります。この時の未熟さとは、自分が知らなかったことを知り、分かった気になっていたことが分かり、如何に自分は知った気になっていただけだったのかを自覚するのです。それにもう一つは、自然の畏敬を感じるかのように如何に自分がちっぽけな存在であったかということに気づくのです。奥深さに気づけるというのは、謙虚で素直な状態であるということでもあります。

また先に知っていれば不安も恐怖もないのでしょうが、知れば知るほどに好奇心の方は働かなくなってきます。不思議を思ったり、未知を感じようと思う感性は奥深さに近づきたいと思うところから出てくるものです。

学問の醍醐味もまたそこにあり、人は出来事や体験したことを振り返り内省することでその味わったことのない新しい価値に気づき、学び直すことができるように思います。

知りえない、分からないからこそそこに奥深さがある。奥深さとは感性なのです。そして人生の奥行きが深くなるのは、「その体験をどのように感じことができるようになったか」ということだと私は思います。

福に転じるチカラというのは、この奥深さのことを指します。

どんな出来事や物事であっても、それをどのように感じてどのように捉えるかはその奥深さの感性の中にあるものです。私たちの会社の戒訓の一つ、「分かった気にならない」は道を歩むものとしての大切な徳目です。

引き続き、子どもたちの歩んでくる道が未知の面白さ、好奇心に溢れる楽園になるように奥深さの感性を磨き上げていきたいと思います。

 

 

生きた歴史

昨日、地元の神社の大宮司様から郷里の歴史についてお聴きするご縁をいただきました。紙面上で記されている歴史とは異なり、生の声で体験から語られる歴史は重いものがあり、そして生きるための智慧に溢れていました。

大宮司様は鎌倉時代より代々この土地を見守る宮司家を継承し、不動のままに現代まで継続されておられました。激動の時代の影響を受けながらどのように郷里が変化し興亡を繰り返して発展してきたか、その歴史には本当に頭が下がる思いがしました。

お話の中身は現代までの90年間についての地域の変遷でしたがなぜ今がこうなっているのかをすべて心から納得できるものでした。お陰様でこの話の先にこれからどのような変化が起きるのかを客観的に判断していくことができます。

歴史の素晴らしさは、その歴史の経過から今までを知ることで感じます。人は今までの歴史を知ることで今に誇りが持てます。今が誇りが持てるのは、それだけ積み重ねた上に今の自分が立たせていただいていることを自覚するからです。

お話の中では戦前から戦中、戦後のお話は心が苦しくつらいものがあり、今では想像もつかないような戦禍を経て今の自分があることにも感謝の念がこみ上げてきます。今回は郷里の歴史をお聴きしましたが、実際には日本の歴史そのものを語っているかのようでした。地域の起きている課題は日本全土の課題そのものであり、地域の課題が解決するのなら日本全土の課題もまた解決するように感じました。

今までは当たり前だった風土と一体になった暮らしがなぜ地域から消え失せたのか、人々が大切に守ってきた伝統、信仰や御祭りがなぜ廃れてきたのか、そこには今まで必要とされてきたことが突如として欧米が入り解体させられ不必要になっていったという事実。大宮司様の経験からどのような方法でどのような経過によって今になったのかをつぶさに確認することができました。

まさかこの歳になり、はじめて私はちゃんと郷里の歴史と向き合ったように思います。思えばあれだけ子どものころから学校で教わった歴史は何だったのか・・・論語の「女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是(これ)知るなり。」で私は何も知りませんでした。

郷里への恩返しの実践によってはじめて私はこの郷里の本物の歴史を学び直しています。歴史を生きたままにするのは歴史を語る人、その歴史を継ぐ人がいるからです。歴史を自覚するには、その根底に感謝や恩返しの実践が伴わなければ単なる知識になってしまうのです。

最後に私たちは生まれて育てていただいた土地、自分の身体を形成してくださった土地、空気や水やその他の環境全てはその風土が醸成してくださった風土の産物です。その風土の産物として風土に還元していこうとするのは、自然と共に暮らし循環を已まない有史以来の私たちの生き方です。

子どもたちのためにも、生きている歴史を常に学び直しながら、自分が生きたままの歴史そのものである自覚とその誇りを心に持ちながら暮らしの復古創新、本物の民家甦生を手掛けていきたいと思います。

歴史を紐解く

全てのものには歴史があります。ここでの歴史とは学校で習ったような単なる知識ではなく、本来の歴史、つまり「今」のことです。全てのものには今があるのだから、この歴史は今とは切り離して考えるものではないことはすぐにわかります。

例えば身近でいえば「あなたの今の生きざまが会社の歴史になる」という言葉があります。これはあなたが今、会社で取り組んでいることが子孫まで歴史として繋がっているということです。また今いるところにも過去には沢山の人たちの人生や生き方、生きざまが凝縮されておりその延線上に自分が立っているとうことです。

今の自分が生活できるのは、かつて会社の歴史の中で一生懸命に貢献してくださった方々の御蔭様で今の自分が仕事をさせていただけているとも言えます。それを忘れるのは歴史を忘れることでそんな根無し草では養分をいただくこともできなくなります。今に生き切ることができるのもまた、その歴史の重みを自覚するからです。

歴史の重みを知ることは、今の重みを知ることです。今がなぜこうなっているのかを知ることは、かつては何が起き、そしてどの道を選び、何が発生して今に至るのか。その今を理解するためには歴史が必要です。そしてその歴史とは単なる誰かの主観ではなく、今までどうしてきたかを知り何が本質であったのかを探る大切な手掛かりになるのです。自分が先人たちの命がけの経験を理解し、その経験を見せていただいた中で未来の子孫のために何を取捨選択し調整するのか、それは今を生きるものたちのお役目でもあります。

その時は時代の流れもあり、仕方がなかった対処もあったかもしれません。しかしそのまま繋がっているもので絡まりほつれた糸を結び直すのには、それを一度紐解いてみなければわかりません。歴史を紐解いてみてはじめてこれはそういうことだったのかということがわかってくるのです。その上でどのように結び直せばこれから簡単にほつれずに済むのかは、その時代時代に生きた人の責任で行われるものです。

地域甦生、日本甦生には歴史の存在が欠かせず、今に誇りを取り戻すためにもそれぞれが地域の中で歴史を結び直す必要があるように私は思います。時代時代に歴史はその時代の人たちによって結び直されていきます。その結びの心は、歴史によって語られ今の生き方に由って紡がれます。

今の自分に責任を持つというのは、今が未来になることを理解し今が歴史の上に立っていることを自覚するということです。

自分の生き方と生きざまが歴史になるのだから、一日一生、後の人たちに恥じないように徳を積んで徳を残し、徳を譲っていきたいと思います。

暗闇の色

先日、古民家甦生を実践する聴福庵の板を渋墨で仕上げていきました。この渋墨とは、柿渋(渋柿の未熟な果実を粉砕し圧搾して得られた汁液を発酵、熟成させたもの)と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたものです。古来からある伝統技術であり、防虫・防腐効果のある天然塗料として家屋のあらゆるところに使われてきたものです。

今は耐久性や作業性の良いペンキやラッカーなどの油性・化学塗料の普及で渋墨はほぼ消滅しているといいます。

この渋墨の上品な黒色は、化学合成のオイルステインで出てくる黒ではないことは一目瞭然でわかります。古民家甦生を通して暮らしも復古創新している最中ですが私が取り組んでいる炭とこの渋墨の相性はとてもよくあらゆる場所で重宝しています。

そもそも隙間の多い日本家屋は、外界の自然と離れずに一体につながったまま存在している家屋ですから防虫はとても重要です。さらに高温多湿で常に水気が多い部屋ですから防腐もまた重要です。

伝統の智慧は風土の影響を受けて発達しますからこの渋墨は日本の気候風土そのものが産んだ最高の技術の一つです。

柿渋は以前のブログで書きましたが、この渋墨はその柿渋に松煙といった煤を混ざるという発想。これは暮らしから出てきたのではないかと私は思うのです。囲炉裏で松を燃やせば煤が出ますが、その煤が壁につくと奥行のある深い黒が出てきます。そして煤がつけば虫が来ないというのを先祖は経験から知っていたのでしょう。それに発酵する清酒を入れることで、塗料として合成する。よくできた仕組みを感じながら塗るたびに出てくる色の深さにうっとりしてきます。

松煙の色は、炭の持つ色にとても似ています。

私はこの炭の色がとても好きで、夜の深い闇の色を観ているようで穏やかな気持ちになってきます。闇が失われてきた時代、どこでも電気が明々とつき都会は暗くなる時がありません。まるで闇を遠ざけているかのような現代です。

しかしこの闇は、心の時間を与えてくれるものであり休む時間を持たせてくれるものです。この闇の時間があるからこそ、いのちのエネルギーは甦生します。私が炭やこの闇の色にこだわるのはこの古民家が子どもたちの心を癒すように願うからです。

引き続き、渋墨を用いて深い奥行のある墨の色、暗闇を創出していきたいと思います。

自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

自分らしさ

自分らしさという言葉があります。昨今はこの「自分らしく」という言葉をよく聞くようになりましたが、これは自分らしくいられない人が増えてきているということでもあります。

自分らしさとは何かということを少し深めてみようと思います。

そもそも自分らしさというのは、自然体の自分ということです。自分らしくいることを無理しない、つまり自分のままでいいという状態です。それは誰の評価や結果、期待や比較などで自分を作り上げようと無理し頑張ろうとしないということです。

現在は、無理をしてでも頑張っても自分の与えられた役割を果たそうとする人が増えています。本来の自分ではやらないようなことでも誰かから与えられた役割や立場を守るために頑張ろうとするのです。その役目がピタリと合う人はいいのでしょうが、実際は能力主義や結果主義、個人主義が背景にありますから、何とかできなければ無理をして頑張って頑張れなくなったらもう無理だと倒れてしまいます。その段階においては楽しいや面白いといった好奇心も枯渇していることもほとんどです。そして自分らしくいられないと別の自分らしくいられるところを求めてはさ迷うのです。

実際は自分には無理なことがあることを自覚し、無理なことを頑張ろうではなく得意なところを活かして苦手なところは周りに頼るというのが自分らしくいられるということです。認め合い、プロセスを大切にし、助け合い協力することが背景になっているところは安心して自然体でいられます。できるところをやればいい、無理をしなくてもいいという安心感はいつでも仲間が見守ってくれているという安心感に包まれます。

このように自分らしくというのは決して自分だけでできるものではなく、その周囲の環境や仲間の存在によって感じられるものということになります。信頼し合う関係は、認め合うことからはじまります。当然周囲にその環境があっても、自分のことを認めず他人のことも一切認めようとしない人は自分らしくいられなくなります。

自分らしくいるために、如何に自分から周囲を認め、周囲もその人を認めるか。その人らしさとはその人を丸ごと認めていくということです。

私たちが目指している人間社會は誰かだけが誰かによってつくられ、本来の自分になれず無理をして一人だけ苦しむようなものではありません。これまでもみんなで一緒に生きてきたのが人類の叡智だからこそ、感謝のままにみんなが一緒に楽しく仕合せに暮らせるように一人一人を尊重し思いやることが自分らしさであることを実践で示していく必要があると思います。

多様な異なりがあっても、認め合っていけばそこには自分らしくいられる人たちの個性が活きていきます。好奇心もまたそういうところで発揮されていきます。これだけの個性がある人間が増えていくことは、それだけ助け合える機会が増えていくとうことです。

人口80億人の時代が来ていますが、これだけの個性が増えたことが仕合せに思います。この人類が協力し合い生きていく社會を夢見て、今日も理念研修に臨みたいと思います。

本質的創造

人は正しい方を選ぶときマジメになります。正しいことばかりをやろうとする心は、本質から外れているとも言えます。何のためにと本質から考えれば自ずから正しいことよりも如何に楽しいことにしようかと転じられるものですがその本質を見失えば正しいことばかりを求めてしまうのです。

かつて学校で先生が言っていることをきいて正しいことばかりをやろうとした人は「マジメであることが優等生である」と教育を施されてきました。私も何も考えなかった頃は、先生の言われた通りにやっていることが正しいことで、さらには言われていない先生の意図を読み取ってそれを事前にやったらほめられると信じていたころもあります。なんでどうしてと聞きなおすと怒られたりもしました。何のためにそれをやるのかを教えず技能ばかり磨いていたら人間よりもロボットの方がずっと進歩してしまったというのが今の世の中の矛盾のようにも思います。

私は性分からか、何のためにこんなことをと考えてしまうためすぐにやる気をなくし正しいことをマジメにやることに興味がなくなってしまいます。しかしその御蔭でいまでは何が本質かと自問自答して突き詰める面白さを楽しめています。

本当は何かと考え抜くのは人間の遊び心でもあります。如何にそのものが楽しくなるかを考えるのは本質が観えているからなのでしょう。どうせやるのならとむしろこうやろうと創意工夫が高まっていくのです。

例えば、伝統でも守らなければならないと悲壮感を漂わせていたら正しいことをやるしかないとマジメにやるうちに楽しくなくなっていくものです。しかし、伝統を守るためではなく本来の初心や理念を今の時代ならどうやってやろうかと好奇心でやっていたら楽しくなってきます。

よく好きなことに一生打ち込んでいた人が大成するといいます。その逆に好きでもないことをただマジメにやっていても大成することはありません。マジメでは大成しないと言っているようなものです。好きなことを楽しむ境地は、マジメからは生まれず、本質から生まれるのです。

私はこれを本質的創造といいます。

この本質的創造とは常に何のためにやるのかを忘れず、そのために効果があるものを創意工夫しアイデアを出す営みです。周りからみれば突拍子もないように観えても、それは信じる世界で自らの人生の道を前のめりに楽しんでいるから湧いて出てきます。そういった目的意識や本質は世間の常識をすべて壊していきます。

常識に囚われることは面白くなくなってしまうし、ちゃんとやればうまくいくなどは過去の前例に縛られているだけです。新しい発想は、そのものを楽しみ味わい抜く中にこそ生まれてきます。

一期一会の人生を味わうのだから、真面目に生きなければもったいないと私は感じます。本質的創造は好奇心の賜物ですから、引き続き子ども心でワクワクドキドキしながら取り組んでいきたいと思います。

心の豊かさ

古民家甦生を通じて古いものを修繕していると誰もがその光景をみて「懐かしい」と感じます。その懐かしいと感じるものは何か、それは心の豊かさです。懐かしさとは人の心の中にあります。

今の時代は、過剰な貨幣経済が発達しお金の方が物よりも溢れかえっています。都会にいけば手に入らないものはほとんどありません。家電製品であったり生活用品であっても簡単に購入できます。

しかしちょっとしか使われずもっといいものがあれば購入して古いものは廃棄されます。本来、昔の先祖たちはものを大事に最後まで使い切りました。それを見立てるとも言います。

私が尊敬している鞍馬寺の貫主様も、壊れた茶碗を花瓶に見立ててお花を活けていました。こうやって使えなくなったものを別の形にして活かそうとする。その心の豊かさは私たち先祖たちがずっと大切にしてきた心です。

この心を知る時、私たちは豊かさとは何かの本質に出会えるのです。

心の豊かな人とは、もったいないそのいのちを使い切る人です。同様にもったいないその一期一会のご縁を活かす人です。

二度とないものをもっと大切に使い切ろうとする心は別にゴミを捨てないとか、節約しようとすればいいのではありません。今までお役にたってきたいのちを慈しみ愛おしむ心、いのちが宿っているものへの思いやりと感謝、それは自分がこの世で暮らしていける仕合せを味わっている人生の豊かさです。

心の豊かな人は、その存在が懐かしく感じます。こうやって先祖の心に触れて生きていけることは何もない中でも無尽蔵にある宝に出会っているようです。

子どもたちにも心の豊かさを譲っていけるように古民家甦生を楽しんで歩んでいきたいと思います。