差別の本質

私たち人間は栽培をすることで自然の恩恵を多くいただいてきました。本来は野性にあったものを時間と愛情をかけて育てることで人間に恩恵があるように培養してきたとも言えます。

それは植物に限らず、身近な動物にいたるまで人間が一緒に生きる仲間を増やしては共に助け合い生きていくパートナーを育ててきた歴史であるとも言えます。栽培するといっても、そのものが望んでいるように、そのものが育つようにと見守るように栽培するのはお互いに尊重し合い生きていくという意味で道徳に適っています。

しかし今では大量生産大量消費によって植物に限らず身近な動物までそのものが望んでいないような成長をさせられ、効率優先に速成するように改良され、また抗生物質や遺伝子組み換えなどそのものの本来の姿がまったく別のものにさせられるように粗末にされています。

人間にとって都合が良いか悪いかが全ての判断基準になり、そのものにとっての意思は尊重されていません。これはそのうち人間同士においても必ず同様になっていくように思います。少し前の南北戦争の頃のアメリカでは奴隷制度があり、白人が特別で黒人は白人のための奴隷になっていた時代があります。人権も権利も与えられず、いのちも粗末に扱われていた歴史があります。白人と黒人と差別しお互いに尊重し合わないことで共に人間らしさが失われていくのはとても苦しいものです。

この差別というものの本質は、「自分だけを特別にする」ということです。先ほどの栽培であれば、植物も動物も自分たちのために存在させればいいという考え方です。相手も一緒に育つ存在ではなく、自分たちのためだけにあればいいという考え方。利己主義で自利のみを考える、都合が悪くならないようにそこは別のものとして差をつけるということです。

これは上下関係でも同じく、上と下を分けることで特別をつくるのです。この差別がなぜ問題なのかはお互いが尊重されなくなることでお互いの心が通じ合わなくなります。誰かが一方的に誰かを支配し、誰かが一方的に支配される。これが差別とも言えます。上下が問題ではなく、尊重し合わないことが問題なのです。

人間がごう慢になるか謙虚であるかは、この差別心のあるなしに由ります。

共に歩んでいく仲間で、いつも自分を手伝ってもらっている感謝の存在だからこそ大切に相手のいのちも自分と同じように尊重する。違うから別れるのではなく、お互いの違いを尊重して認め合えば自ずからお互いの持ち味を活かし合おうという境地に達して自然の恩恵を皆で一緒に享受していく仕合せな風土が顕現するのです。

改めてこの差別という刷り込みをどのように取り払いお互いが自由になるか、さまざまな風土改善の方法を深めながら仕法の開発に取り組んでいきたいと思います。