人は「できるできない」刷り込みがあると、できないことは悪いことでできることは良いことだと思いこみます。幼少時からできる人になるよう教育を受けていけば、皆と同じことができることが当たり前でできないことは悪いことだと思い込まされます。
しかし個人として一人で生きるのならばできることを目指すのでしょうが、社會全体で見た時はどうかということです。私は社會全体で観た時は、「できるできない」よりも「助け助けられる」関係を築くことの方が重要ではないかと思います。
本来人間は、できるかできないかで自立しているかどうかを評価する前に、助けてもらったり助けてあげたりといった相互扶助の心を持ち合うことができて自立した社會を築けるように思えます。もしも一人で生きていくのであればそういう社会を目指していくのでしょうが、一緒に生きるのであればまた別の社會を目指していくものです。将来、どのような社會を創造するかはその人たちの生き方や行動に懸っているとも言えます。
現在の社会では能力が低くできないことで病み、一人ぼっちになり鬱になっている人が増えています。できるようにならなければ生きられないと思い、能力が他と比べて低い場合はそれで絶望している人もいます。それは「合わない」と思って他の人に力を借りればいいのでしょうが実際は何とかできるまで無理にでも頑張ろうとします。またそういう無理強いしなければならないような空気も社会の中にあります。勝ち組負け組などもそういう空気間から出てきた言葉です。
無理をして頑張れないのは向いていない、合わないということですがそれではダメだと思い込むとさらに辛いことになります。それに人は弱さを出せず弱いことが悪だとし自分を傷めつけもっと強くなれと無理強いをさせていけば心に深い傷が残るものです。短期的には感情的に頑張れますが楽しくなければ長続きはしないものです。それにその傷がうずくたびにもっと強くならなければと発奮しもっと一人で頑張ろうとします。するとできるようにはなっても同じように周囲に無理強いをさせる社会の一員に自分がなってしまうかもしれません。
人は弱さを持てば周囲に助けてと頼めます。そして助けてと頼めることで周囲はその人を助けます。お互いにそうやって頼み頼める関係ができれば信頼関係が深まり、社會は安心した繋がりが生まれます。人間の赤ちゃんが最初は一人では生きていけないのは最初から周囲に助けてもらうことを優先して生まれるからです。
長い時間をかけて赤ちゃんのままでいるのは、それだけ助けてもらったり助け合ったりする力を身に着けるためです。逆に今では早期教育なども流行り、なんでも結果主義で速成ばかりを強いますがそれは個人ではできるようになっても社會がよりよくなるかどうかは別なのです。人間とは人の間と書きますが、これは人と人とが助け合い生きていく動物だという本性を記したものです。
どんな社會を築いていきたいか、それは今の大人たちが実感しているものの中で取捨選択して残したいもの譲りたいものをよく向き合って子孫へつないでいく必要があるように思います。
人間とは社會を創る生き物だからこそ、その社會に人間性は出てくるものです。
引き続き、子どもたちが自然に創る社會を見つめながら学び直しを進めていきたいと思います。