人は正しい方を選ぶときマジメになります。正しいことばかりをやろうとする心は、本質から外れているとも言えます。何のためにと本質から考えれば自ずから正しいことよりも如何に楽しいことにしようかと転じられるものですがその本質を見失えば正しいことばかりを求めてしまうのです。
かつて学校で先生が言っていることをきいて正しいことばかりをやろうとした人は「マジメであることが優等生である」と教育を施されてきました。私も何も考えなかった頃は、先生の言われた通りにやっていることが正しいことで、さらには言われていない先生の意図を読み取ってそれを事前にやったらほめられると信じていたころもあります。なんでどうしてと聞きなおすと怒られたりもしました。何のためにそれをやるのかを教えず技能ばかり磨いていたら人間よりもロボットの方がずっと進歩してしまったというのが今の世の中の矛盾のようにも思います。
私は性分からか、何のためにこんなことをと考えてしまうためすぐにやる気をなくし正しいことをマジメにやることに興味がなくなってしまいます。しかしその御蔭でいまでは何が本質かと自問自答して突き詰める面白さを楽しめています。
本当は何かと考え抜くのは人間の遊び心でもあります。如何にそのものが楽しくなるかを考えるのは本質が観えているからなのでしょう。どうせやるのならとむしろこうやろうと創意工夫が高まっていくのです。
例えば、伝統でも守らなければならないと悲壮感を漂わせていたら正しいことをやるしかないとマジメにやるうちに楽しくなくなっていくものです。しかし、伝統を守るためではなく本来の初心や理念を今の時代ならどうやってやろうかと好奇心でやっていたら楽しくなってきます。
よく好きなことに一生打ち込んでいた人が大成するといいます。その逆に好きでもないことをただマジメにやっていても大成することはありません。マジメでは大成しないと言っているようなものです。好きなことを楽しむ境地は、マジメからは生まれず、本質から生まれるのです。
私はこれを本質的創造といいます。
この本質的創造とは常に何のためにやるのかを忘れず、そのために効果があるものを創意工夫しアイデアを出す営みです。周りからみれば突拍子もないように観えても、それは信じる世界で自らの人生の道を前のめりに楽しんでいるから湧いて出てきます。そういった目的意識や本質は世間の常識をすべて壊していきます。
常識に囚われることは面白くなくなってしまうし、ちゃんとやればうまくいくなどは過去の前例に縛られているだけです。新しい発想は、そのものを楽しみ味わい抜く中にこそ生まれてきます。
一期一会の人生を味わうのだから、真面目に生きなければもったいないと私は感じます。本質的創造は好奇心の賜物ですから、引き続き子ども心でワクワクドキドキしながら取り組んでいきたいと思います。