今年の自然農の高菜があと30日前後で収穫時期に入ります。今年は虫や猪に荒らされ種蒔きを3回やり直すということが起きました。収穫は無理でも種取りだけはできるだろうし、ここから必ず何か学ぶことがあるだろと色々と手を盡しているとまだ予断を許しませんがなんとか収穫もできそうです。
基本は自然農では、持ち込まない持ち出さない、草も虫も敵にしないという理念ですがその理念は維持しつつ、遅れた時機を取り戻すために高菜が育つような環境づくりは真摯にしていく必要がありました。慣行農法で用いられるような一般的な牛糞や鶏糞などの肥料は虫を大量に増やすことになるため一切用いず、今回、手入れに使用したのは日ごろ自宅の火鉢で使っている木灰と炭の木酢液、もみ殻燻炭、そして落ち葉、枯草などの腐葉土、さらには菌で発酵させたぼかしを使いました。
自然農の高菜をはじめて6年目まで順調にきたのが不思議なくらいで、これだけ毎年やっていたら色々な変化が発生します。特に昨年は個人的には古民家甦生も始まり、本業でも大切な友人が大事な局面を迎え一緒に経営改善を実践し、身体の具合もずっとよくなかったりと色々と身辺でも大変でした。
しかしいつも有難いと感じるのは、自分の諦めの悪さです。私は一度決めたことは何年も何十年も諦めないというしつこい性格のようで、心で決めたことはしぶとく取り組みます。結果が出るかどうかよりも、決めたことを取り組むということにしぶとさがあります。
自然農は東北の原発事故がきっかけではじめたもので今の人類の生き方では持続不可能であると気づき、人類の生き方の学び直しがいるということではじめたものです。ですから、単に農作物を育てているのではなく学び直しが本懐ですから諦めるということがあるはずがありません。今回の件も、自分の何が間違っているのか、何が一体謙虚でなかったのかと一連の意味付けを怠るわけにはいきません。また自然の変化に対して素直になっているか、学問は深まっているか、感謝の気持ちは失っていないかと常に内省が試されます。
初心のままに諦めずに取り組んでいくと失敗というものは一切なく、全ての出来事は大切な学び直しであることを実感し自分の生き方の改善に活かします。自然に沿って歩んでいけば、自然の方は変化を已みませんがその変化に対して創意工夫を怠るのは自分の姿勢に問題があるからです。常に改善を続けてどんなことからも学び直して工夫をしていく人は必ず最期には目的に辿り着きます。瞬間瞬間の変化に対してどれだけ学ぶかというのは、覚えるためにやるのではなく学ぶために行うからです。
よく仕事でも勉強でも学んでしまえば終わってしまう人がいます。これはとても残念なことでその時、その人は変化できなくなり学ぶことを止めてしまうことを意味します。どんな日々、どんな仕事であっても常に間違っていることはないか、もっと改善できるところがあったのではないかと終わることが目的ではなく学び直すことが目的の人にはいつまでも終わりはありません。
この終わりがないと思うところにこそ諦めない心があるように私は思います。
万物は変わり続けて流転するのが生命であり地球の真理です。変化は生きている証拠であり、学ぶのは成長しようとする本能の性です。だからこそ頭で考える暇はなく、体験したことをさらにもっと深めて掘り下げていく努力が必要です。その掘り下げていく中で気づくのは体験の尊さと御縁への感謝の両輪です。
生きるための学問から、楽をするための勉強になってしまってはなんのために学ぶのかということの意味が変わってしまいます。道は続き終わりはありません。
引き続き、子どもたちの憧れる生き方を実現するためにも初心は諦めず全ての変化は天にお任せして自分の使命を盡していきたいと思います。