心の甦生

ちょうど今から一年前、島根県石見銀山の帰りに郷里の古民家に立ち寄ったことで古民家甦生がはじまったのを思い出します。生きていると事あるごとに自分を育ててくださった故郷、自分を見守ってくださった風土、そして歳を経れば経るほどにその有難さに頭が下がる思いがしました。

私たちは当たり前に空気を吸い、当たり前に水を飲み、当たり前に食べ、当たり前に住まいを得ては生活していますがそれはその土地の風土がなければ実現しないものです。その土地の空気、水、環境は先祖代々大切に守られてきたもので、その恩恵を享受され私たちは安心して仕合せな暮らしを継続していくことができるとも言えます。

今では簡単に移転や引っ越しをして、遠くの土地に移動していきますが古来は自分の住んでいる場所は周りと共生関係を結びいのちの廻りを繰り返した処ですからその場所で循環をし好転し続けるように自分自身も協力して場所を活かし続けていくのが人の道です。

この一年、古民家甦生を通して郷里の誇りや自信を感じました。さらに、それまでに刻まれた歴史や物語、そして今に至るまでの偉大な恩恵を感じることもできました。自分たちのルーツを持つというのは、歴史を持つということでもあります。今の自分を知るには、その自分の歴史を知ることだとも言えます。自分の歴史と郷里の風土は切り離されることはありません。その偉大な恩恵を感じるとき、私たちははじめて暮らしの大切さを学び始めます。

暮らしというのは、現代では何か人間社会の生活のみで語られることがありますが本来は風土と一体になってはじめて暮らしは実現します。その暮らしは、それまでの歴史を伴い、生活文化としての暮らしを言うのです。文化を切り離しての生活は暮らしとは呼べないのです。その文化は風土自然と一体になっています。

私が恩返しで実践をはじめた民家の甦生は、暮らしの甦生でもあります。そして同時にそれは歴史の甦生、風土の甦生、自然の恩恵に感謝して生きる私たちの心の甦生です。

いよいよ古民家甦生も二年目に入りますが、ご縁を大切にし御蔭様のお助けに感謝し、初心を忘れずに実践を高めていきたいと思います。

伝承の豊かさ

先日、古民家甦生で聴福庵の囲炉裏の間に入っているくにさき七島藺の畳の生産者、淵野聡さんにお会いするご縁がありました。この『七島藺(しちとうい)』は、大分県の国東地方だけで生産されているカヤツリグサ科という植物です。

七島藺は350年の歴史があり、琉球畳は本来、この七島藺を使ったものを言っていました。かつては国東で2万戸の農家が生産していた七島藺も今ではその生産ができる農家が9戸のみになっています。畳表を製作しているところも見せていただきましたが、一日わずか2畳分しかできない手間暇をかけて作られているものです。

淵野さんは、この七島藺に魅せらせそれまでに勤めていた高速道路の仕事を辞め、この七島藺の生産と製造をはじめられたといいます。よき人、よき師匠に巡り合い、いい畳をつくりオリンピックの柔道畳に採用されることを目下の目標にし精進しておられました。

世の中では単に脱サラして転職したとか、いろいろと評する人がいますがこの方は道に入るといって導かれるままに天職に移ってこられた方です。不思議なものですが、本人が選んでいるようにも見えますが、実際は七島藺が人を選んでいるようにも見えます。これは出会いと同じで、いのちといのちの廻り合いは時や場所を超えて縁尋奇妙に結ばれています。何かが失われそうなとき、それを守る人が出てくる、諦めそうなとき、助けてくださる存在がでてくる、道の伝道に伝承者が顕れるように、ご縁の不思議さを感じます。お互いに我慾ではなく、真摯に真心を籠めて天命に従うとき、人は本物と出会うのでしょう。

また今回はちょうど苗を育てている時期だったので、水田の中で新芽を出している七島藺を拝見することもできました。これは真菰竹などと同じで、種ではなく苗を越冬させその苗から翌年のものを育てていくものです。

こうやって大切に株分けされたものを長い年月をかけて育てて農産物を大切に加工して生産していくことに大きな豊かさを感じます。自然と共に暮らし、自然からいただいたものを大切に自分たちの暮らしの中に取り入れていく。当たり前のことですが。これができる幸せは、単にお金で買えるものとは一線を画します。

豊かな暮らしというものは、先祖から大事に譲られてきた伝道をそのままに私たちが子孫へつなぎ紡ぐ伝承をするときに感じられるものかもしれません。

引き続き、未来の子どもたちの為にも日本の民家甦生を味わいながら豊かな暮らしを再生していきたいと思います。

慈愛の中心

自然農の田んぼに出で、畔を整えているとその周りには春の花と共に土筆が顔を出していました。それにたくさんのオタマジャクシやカニワナ、田んぼに被せた藁をのけると生まれたてのクモや小さな虫たちが走りまわっていました。

この時期は、新しくいのちの廻りをはじめる季節で夏の終わりまで活動する生き物の子どもたちで溢れています。自然には陰陽があり、季節もまた陰陽があります。また気温にも陰陽があり、その場所にも陰陽があります。

この陰陽を繰り返し巡ることでいのちは活性化していきます。寒暖の差においても陰陽があり、オスとメスにおいても陰陽があります。その陰陽があってはじめて調和するのが生き物であり、調和することではじめていのちは存在し続けることができます。

この陰陽調和を司ることができるものは生き物の王とも言えます。万物を活かし万物の調和を保てる人物は、周囲の道具を活かし関係性や場を創造できるものです。それは自然と同じように慈しみや愛を持って接することができるものとも言えます。

もっとも自然に近づいたもの、もっとも自然体になったものが陰陽をその中心に保ちます。かつてのご先祖様が続けてきた日本古来からの暮らしは、万物を大切に使い活かし、子孫へとその関係や場を改善しつつ譲り遺していただいたものばかりです。この地球の自然もまた、ご先祖様たちが大切に子孫のためにと遺してくれました。その慈愛の恩恵を私たちはいただき幸福を得られています。

慈愛の中に陰陽があり、その陰陽調和によって美しい自然は廻ります。

呼吸し生死を繰り返すように、私たちが生きている日々はまばたきのようなものです。少し目を閉じて心の声に耳を傾け、長い目で物事を考え、今何をすべきかを間違わないように歩んでいきたいと思います。

陰陽のめぐりに合わせて、慈愛の中心を磨き直していきたいと思います。

 

自然の理解~炭の実践~

炭の実践を続けていると、炭には多様の個性があることが分かります。それは木によっても異なりますし、作り手、また製造方法でも異なります。人は炭をみんな炭と呼びますが、実際に触れているとあまりにも個性が強い炭を単なる「炭」という言葉ではとても分類分けすることはできません。

同様に火も同じ火はなく、竹炭の火、備長炭の火、また薪の火、枯草の火と、その火の種類や個性も千差万別、あらゆる個性があります。そして燃焼の時間によってその温度の高さ、熱伝導の量もまったく異なります。炭には同じものは一つもないのです。これは香りも同じく、同じ香りがなく、そして同じ光もなく、同じ形もなく、一つとして同じものはないのです。

そしてこれが自然そのものの姿であろうと私は思います。

脳は物事を理解し、言葉で伝達するために本来個性があるものを一つの同じものであるかのような調整を行いました。しかし実際の現実では同じものは一つもないのだからそこに歪が出てきます。その歪が少なく精度が高くしたものを科学と呼び、大したもののように語りますが自然はそんなものではなく、不思議な調和の中で決して分類できないもののつながりや融和によって存在しています。

同じものがないと理解するのなら、同じように接している自分自身を見直す必要があると私は思います。それが自然の理解です。自然の理解の入り口は、まず自分の価値観の前提をひっくり返すこと。そして同じものを探して比較しようとする習慣を、もともと異なっているという接し方に換えた習慣を上書きしていくのがいいように思います。

みんな違ってみんないいという言葉であっても、その価値観の前提が歪んでいたらその意味の本質も変わります。それぞれの個性の尊重はまず自然そのものを観る力、自然に触れる力、自然を丸ごと理解する感性を暮らしを通して身に着けていく必要があると思います。

炭に触れれば触れるほど、自分の感性は磨かれていきます。炭と火が感性を磨く砥石になっているのです。

引き続き炭の実践を通して、自然の理解を深めていきたいと思います。

 

磨くことの意味

昨日は、高知から来ていただいた創業123年の竹材メーカーの経営者と一緒に古民家甦生の磨き体験を聴福庵で行いました。江戸時代の水屋箪笥や、建具の扉、また小物入れなど蜜蝋や米ぬかオイルを使い丁寧に磨いていきます。古民家の中では手入れして磨き上げられるものが多く、材料に事欠きません。

しかし現代の住宅では、表面上の掃除をモップや掃除機でできることはっても磨きあげるようなものはあまりありません。かつては学校も木造建築で廊下をはじめ椅子や机、様々な道具を手入れし磨き上げることで「磨けば光る」ということを語らずして学んでいました。今では鉄筋コンクリートで、さらには掃除の仕方も簡単便利な西洋の道具を用いることになりあまり掃除の価値も感じられなくなっているように思います。

昔から諺に「玉磨かざれば光なし」「瑠璃も玻璃も照らせば光る」などもあります。掃除には、単に片付けとしての掃除もありますが「磨く」という掃除もあります。掃除において大切なのはこの磨くことだと私は思います。そのものの価値をさらに光らせようとする、光るものを光るものだと気づかない自分の感性を掃除していくことで次第に色あせて澱んでくる自らの精神や心をいつも美しく保ち心を高めていくことで自分の観える世界が純粋に変化していきます。

この純粋な心は、磨くことで洗われ、手入れすることで維持されていくものです。日々の磨き直しは、心の手入れ、魂を磨くことであり、それは自分自身の持ち味や個性、天分の発揮、さらには自他を活かしていく力を高めることでもあるのです。

弘法大師空海はこう言います。

『人間は誰もが胸のなかに、宝石となる石を持っている。一生懸命磨いて、美しく光り輝く玉になる。』

この一生懸命に磨くということを教えてくれるのは、日本の伝統的民家の空間に息づく木造建築の中にすべて凝縮されています。それを磨くことで私たちは玉になる意味を学ぶのです。どんな人であっても、どんなものでも、どんな体験でも磨くことに意味があり、私たちは光ることでいのちを輝かせていきます。

中村天風さんはこういいます。

『「玉磨かざれば光なし」の歌にもあるけど、石も磨けば玉になることがあることを忘れちゃ駄目だ。「私なんか駄目だ」と捨てちゃ駄目だ。百歩譲って、いくら磨いてても玉にならないとしてもだよ、磨かない玉よりはよくなる。ここいらが非常に味のあるところじゃないか。』

誰かと比べて羨ましがり、見た目をコーティングしてもその一時的な光は必ず劣化していき崩れていきます。しかし磨く光は経年変化を繰り返し飴色のうっとりする色合いを持ち始めます。磨き続ける年月がそのものを光らせ、味わい深いものになる。磨く喜びは日々の過ごし方の在り方、その人のいのちの生きざまを育てていきます。

宇宙にあるすべてのものは必ず磨けば光るのです。ここに絶対安心を感じ、成長することの喜び、日々道場のある幸せを感じます。

子どもたちが憧れる生き方を追求していきたいと思います。

使い方の修行

道具というものは面白いもので使い方次第では、あらゆる可能性を秘めています。古民家甦生を通して、かつての古道具をリメイクしてそれを今の時代だったからどう活かすかと磨き上げていますが用い方によっては新たな発見や発明がありワクワクします。

かつて中心思想の常岡一郎さんは、『人間は生まれながらにして「使い方」の修行をするのだ』といいました。確かに、道具も使い方、そして道具を活かす人間自体も使い方、自分という人間も使い方、この様々な使い方の中に生きる哲学があり、その人の生き様があるように思います。常岡さんは心の使い方に注目しこう仰います。

「この世の中そのままがわれわれにとって道場であります。生まれて死ぬまで人間は修行してるものと思われます。それは「使い方」の修行です。身体の使い方、 心の使い方、 金の使い方、 力の使い方、 知恵の使い方、鮮やかさの使い方、正しさの使い方、 自然に添う使い方、 気持ちよい使い方、それを毎日修行する。そのための人生は心つくりの道場であると思います。」

心つくりの道場・・・自分がもしも天や神様の道具だとしたら、こうじゃなきゃ使われないと意固地に頑固に潔癖であったらその道具は使いにくいし出番も少ないように思うのです。

今、リメイクしている道具たちはこちらがこう使ってもいいかと聴くとなんでも受け入れて手伝ってくれます。ある時はテーブルに、ある時には蓋になり、またある時は扉になり、またある時は台になり、こちらの要望にあわせていくらでも変化して、しかもそれであってまるで最初からそうであったかのように馴染んでくれます。その道具もまた自分を新たに発見しその時代に活かされる歓びを感じているかのように活き活きと輝きます。

古民家の道具たちは、あらゆるものに変化し、使い手と協力関係を結びお互いを尊重して大切に相談しながら活かしあい互いに馴染み合います。そこには自然や偉大な調和を感じます。

その時、確かに使い手の使い方もありますが、使われる側にも使われ方というのもまたあるように私は思うのです。それは、「あなたがのぞむのならば私はどのようにでも使われますよ」といった天命を受け容れる心の強さ、柔軟性があるのです。

以前、マザーテレサが「私は神様の小さなえんぴつである」という言い方をされていたのを著書で読んだことがあります。マザーテレサはこう言います。

「鉛筆を使って画家がすばらしい絵を描いたからといって、もし鉛筆が自分は偉いと思い込んだらどうなるでしょう。鉛筆がおごり高ぶって自分の力で勝手に動き始めたら、きっと絵はめちゃくちゃになってしまうに違いありません。鉛筆は、画家の手の中で、画家の思うままに動くからこそ美しい絵を描くことができるのです。」

この無欲さ、捧げ切るという生き方、道具が活かされるには我執や固執があると活かせるものも活かされなくなるのかもしれません。

古い道具たちが時代を超えて私と一緒に今の時代に生き続けられるのは、みんな一緒に天命の赴くまま天意の思うままに生きているからです。そしてこれこそが変化の王道であり、成長の要諦であり、永続する自然のいのちの理なのではないかと私は思います。

「人生は使い方の修行である。」

とても含蓄のある言葉です。引き続き、来たものを選ばず自他一体に真心を盡していく日々を味わっていきたいと思います。

 

魂の実践に生きる

人生にとってもっとも得難いものに「経験」があります。生まれてきて私たちが得られる唯一無二のものはその体験を味わい経験することができることです。生きているだけで仕合せなのは経験の真っ最中であるからだとも言えます。その一期一会の人生をどのように生き、どのように味わうかは、その人の魂の求めるところに由ります。

先日のブログから魂を磨くことをキーワードに書いていますが、真摯に真心を盡していく中で体験は光り輝き、豊かな経験は永遠の記憶となって宇宙の貯蔵庫に蓄えられていくように私は思います。まるで宇宙空間の中で星が煌めくように、わたしたちのいのちや魂の輝きは空間に宿り生き続けていきます。

魂を磨くという言葉に、京セラの稲森和夫さんがこういうことを著書で記しているので紹介します。

「人生の目的はどこにあるのでしょうか、もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。

昨日よりましな今日であろう、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努める。その弛まぬ作業、地道な営為(えいい)、つつましき求道(ぐどう)に、私たちが生きる目的や価値がたしかに存在しているのではないでしょうか。

現世とは心を高めるために与えられた期間であり、魂を磨くための修養の場である。人間の生きる意味や人生の価値は心を高め、魂を錬磨することにある。まずは、そういうことがいえるのではないでしょうか。

俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一生懸命生きていく。そのプロセスそのものを磨き砂として、おのれの人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂をもってこの世を去っていく。私はこのことより他に、人間が生きる目的はないと思うのです。」(出典:『生き方』)

「プロセスそのものが磨き砂」という表現に多く共感するものがあります。私たちは日々の体験や経験が磨き砂になり自分を磨き、周囲を磨いていきます。その体験を早く終わらせようとしたり、結果さえよければいいと生きてしまうのはあまりにももったいないと思うのです。

一度きりの人生だからこそ、そして人生には必然しかないからこそ、その起きた出来事を誰よりも真摯に受け止め、誰よりも真心を盡して正対していくことが魂を生きたことになるように思います。

生きるということ自体が魂を磨いているのだから、どのような生き方をするかは何よりも忘れてはならない人生の戒訓のように思います。

引き続き、今日の体験もまた味わいながら心を尽くし行動する魂の実践に生きる一日を過ごしていきたいと思います。

主人公の醸成

千葉の神崎にある伝統的な酒蔵に寺田本家があります。この酒蔵の23代目当主、寺田啓佐さんが「発酵道」というものを著書で書き記しました。この発酵道には、ご自分の体験を通して腐敗と発酵が醸し出すその価値が語られています。

腐敗もまた発酵であるといい、発酵するためには腐敗も必要と説きます。よくなるためにわるくなる、それも発酵であるといいます。その腐敗と発酵を繰り返すことで何を学ぶか、「うれしき たのしき ありがたき」といってなんでも楽しいものにしていく姿の中に本当に美味しいお酒が醸造できたといいます。

いくつかその寺田啓佐さんの言葉を引用してご紹介します。

「大事なことは、腐敗から発酵の方へ変わっていくと言うことである。否、発酵するために腐敗現象が起こると言ってもいいかも知れない。つまり、良くなるために悪くなると言うことである。いろいろな問題、災い、トラブル、病気など、良くなるために起きるのかも知れない。」

人は色々なことが起きます、自分にとって病気や災難はつらいものですがそれはすべて発酵のための腐敗現象かもしれないといいます。良いか悪いかではなく、発酵がはじまっていると思い腐敗と如何に調和して発酵させる状態にするかがはじまったということです。

そして寺田さんは微生物も人と同じであるとし、微生物から生き方を学びます。

「人間は脳を使えば使うほど自分のエゴに走り欲望と感情に巻き込まれてしまう。その原因を追求していくと過去の記憶にあるようなのです。ところが微生物はまさにあるがまま、目の前の今をどう心地良く生きていくかなのです。だから人間も過去にとらわれず、常岡先生の言うように手放して頭を空っぽにし、中心を取っていけばいいのです。でもそれも怖くてなかなか手放せない。自分はたまたま飛び降りるしかないというところまで追い詰められて、そして飛び降りたら「な~んだ、こんな世界があったのか」と気づいたのです。」

脳で考えるときは過去の記憶に囚われてしまう。原因は過去の何かに囚われて感情に巻き込まれて迷い苦しみが発生するといいます。しかし微生物は如何に今をどう心地よくして生きていくか、自分らしく、あるがままを受け容れて無理をせずに心地よく生きていくというのです。思い切って手放して諦めて流されるままに流れてみたら新たな世界に出会うといいます。

私の解釈では、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ともがくのやめてみれば次第に浮き上がってくるというのと同じです。そうしていると腐敗が発酵に切り替わり、ブクブクシュワシュワと楽しそうに微生物は醸します。そこには腐敗も発酵もどの微生物もつながっていてすべては発達のために必要だったという出会いがあります。発達することが発酵することですから、みんなそうやっていのちは終わることなく繰り返され今に受け継がれているとも言えます。

「発酵してくると、魅力的になる。自分が大好きになる。まわりの人が、あなたにまた会いたくなる。」

そのままの自分、あるがままの自分を好きになることは発酵することです。腐敗を否定し排除するのではなく、腐敗している自分を認め、その腐敗を許し、腐敗も発酵になることを信じてゆっくりと醸成していけば自分のことが大好きになります。そうやって苦労を糧にして忍耐を学び、成熟していく人には周りがその人を必要としていくからです。

本当の自分を取り戻す方法が、この寺田さんの生き方、「発酵道」の中には詰まっています。

最後に、私も発酵を学ぶ人間としてとても共感する言葉がありその寺田さんお言葉で締めくくります。

「松下幸之助も「愉快に生きると幸せになる」と言っている。これから我われは、本物の時代、魂の時代、心を洗って、魂を磨いていく時代に入っていく。そして「みんなもともと一つだ」と言う、ワンネスへと向う時代である。そんな時代に上手く行くコツは、決して「清貧の思想」という、清くて貧しい生き方をすることではない。清くても豊かに生きるという「清富の思想」で生きることである。それが実は、自然に生きると言うことである。

自然の正体は親心である。まさに慈しみと愛である。親の心と一緒である。自然に沿ったらうまくいくのは、自然が愛と慈しみで出来ているからである。だから、自然に逆らって、上手く行ったためしがない。一時は上手く行っても、また腐ってきてしまう。

自然の慈しみと愛を受けて、発酵すれば、人生でも、商いでも、みんなうまくいってしまう。それがこれからの魂の時代の生き方である。」

魂の時代の生き方である・・・引き続き、自然から学び、微生物から学び、本来の自分、主人公としての自分を醸成したいと思います。

魂の磨き

人間は困難によって魂が磨かれるものです。自分の思い通りにならないことは自分を磨く試金石だとも言えます。自分の魂を何を持って磨くか、そこに自分の志や初心があります。魂を磨くというのは、人生の意味そのものですから誰もが磨く機会、試練をいただけます。その試練と苦労がその人の魂を育て光らせていくように思います。

以前、ある人に私たちの会社のことを「魂を磨く会社だ」と言われたことがあります。今の時代は、心とか精神とか肉体とかはあっても魂を磨くということを経営にしている会社は珍しいと言われたことがあります。子どもの心を見守る仕事をしている人たちはほとんどこの魂を磨くことをそれぞれの持ち場で真摯に実践しているように思います。

もう10年以上前に熊本県阿蘇の満願寺窯にて陶芸家の北川八郎先生にお会いしたことがあります。先日も致知の中の記事で写真を拝見しましたがとても穏やかで厳かな雰囲気に懐かしさを覚えました。あの頃に教えていただいたことのヒントも今の会社にいきています。

その北川八郎先生のブログに魂を磨くことについての記事があったので転載します。

===ここから

「今 この日本に生きていると言う事。

この 混乱のない時代に魂が出てきたという事は 素晴らしいチャンスです。

魂を磨く時と場が与えられ その上 世の中に貢献し、魂の向上を図る機会を得たと言う事なのです。

少し前の時代 1940年代、つまり第二次世界大戦の前後の人達と言うのは

私達よりも 魂と生きる意味について学ぶ事が少なかったかもしれない。

なぜならば 現代は魂の事を語るチャンスがとても多いし そのことに気づいた人がたくさんいます。

でも 戦前戦後の頃は ただ食べることに必死の時代でした。貧しくて ほとんどの人が 学ぶ機会がなかったのです。

私達が今 この物質的に恵まれ 自由に生きられる時代の日本に生まれたということは 今世 魂や転世や、生きる意味について 学びの良き場を与えられているという事です。

今世に何を成そうとして生まれてきたのか、その一つはまず 人に良きものを与えよう という事です。

それは 祈りでもいいのです。笑顔でもいいのです。やさしい感情でもいいのです。人を助けることでもいいのです。

「自分の為だけの人生」は 神の意志から遠いという事に気づく事です。

人を許し 人の喜びに参加することです。

特に怒りを捨て 自分を傷つけた人を許す生き方を身に付ける事です。

人の失敗を許してみましょう。人の情けなさ・・・を許してみましょう。

何回も練習して 「○○さん あなたを許します」 と言ってみましょう。

特に 自分に苦と被害を与えた人を許す事です。

許して 光を与える事。

許し続けましょう。もう 許しましょう・・・。」

(「心にある力」より  http://manganjigama.jp/  )

===ここまで

平和な今の時代、物は豊かになりましたが心が貧しくなりました。そしてその心の貧しさを豊かさに転じるには魂を磨く必要があります。磨き方はいろいろとありますが、この北川先生の言う「ゆるす」ということにはとても深い祈りがあるように私は思います。

許す自分、許される自分、自分を労り自分に優しくすることは周りの人も同様に思いやりをもって大切にしていくということでもあります。

許すという磨き方があることを知り、新たな砥石を得た心地です。引き続き、磨くことを本業にしている以上、試練を試金石ににして磨き直していくチャンスに転じていきたいと思います。

個性の尊重

人間には個性があります。それは自分らしく生きるときに出てきます。この自分らしくというのは、無人島で一人ぼっちでいれば自分らしくというわけではないことはすぐにわかります。自分らしくというのは、その陰に集団の中でという言葉が隠れています。つまり個性は一人で実現するものではなく、その色々な人たちの中で自分の個性が存在するということです。

人は一人では生きていきません、人生という感じも二人以上が寄り添っている間に生きている字になっています。人間に限らず全ての生物は単体では存在できず、周囲の生き物たちと共生関係を持ち、貢献し合う中で生き活かしあっています。

これを生活ともいいますが、その生活の中で私たちは多様な個性を発揮することでお互いを必要としあい、お互いの存在を認め合い高め合っています。

よく自分の個性を自分勝手に思い込み、自分を頑固に持つことを個性と勘違いしている人がいますがこれは個性ではなく我儘になります。個性というのは、自分らしく生きていくことができるように自分の人格を高め周囲への御蔭様に感謝し思いやりを忘れず、お互いに尊重し合う関係の時にはじめて語られるように思います。

個性の尊重というものは、お互いに自分のままでいいと認め合う中で行われます。そして認め合うには自分の思い込みの狭い先入観や価値観を捨てて話を聴けなければなりません。人が話を聴くということは、その聴くことを通して丸ごと認めることになり、その丸ごと認めたことではじめて自分らしく生きることを肯定できるからです。

私たちの行う一円対話は、そういう自分の狭い価値観に閉じこもり、思い込みや先入観を取り払い、あるがままのその人の価値観もまた好いものだと認め合う実践です。

この実践を通して人は少しずつ自分らしく生きることが楽しいと思えるようになっていきます。幻聴ばかりを聴いているうちに幻聴に呑まれて感情が抑えれなくなり生きづらくなる人がたくさんいます。

人がみんなと一緒に生きていく仕合せ、人と共に助け合い生き歓び、人間のもっとも幸福と感じられる体験を子どもたちに譲っていけるように日々を研究し仕組みを開発していきたいと思います。