自分と向き合う

人は自分に対しての付き合い方が、周囲の人へ対する付き合い方になってくるものです。自分に素直な人は周りへ対しても素直であり、自分に正直な人は周りへも正直になります。自己との対話というものは、自分自身の心との対話とも言えます。自分の心がどうなっているか、自分の心がどうしたいのか、それは心と向き合うことではじめて理解できるものです。

心と向き合うためには、体験したことを深く内省して自分の心の声を自分が確認していく必要があります。体験を避けていつまでも逃げていても、自分がどうしたいかということを味わうことができません。

今の自分があるのは過去に、自分の中で辛く苦しい時期があったからだとも言えます。その苦しみや辛さを正面から向き合い、それを味わい、自分はいったいどうしたいのか、どう生きるのかと、自分の人生や自分の心と向き合う大切な体験を通して決心を繰り返してきました。

心は体験を通してはじめて自分でも気づかなかったことを教えてくれる存在であり、体験があるから心との対話ができるとも言えます。私自身も、色々な感情が出てきて心はその都度、どうしたいのかと自分と向き合い、葛藤の中で自分の心を定めて覚悟を決めますがそういうことを繰り返していく中で自分と向き合い心も成長していきます。

心の成長は、苦労を味わい葛藤を通して辛酸を舐めその中でちょっとずつ成長を続けます。そうやって人間はみんな出来上がっていきますから、その体験を大切にしてその体験を活かすことによってのみ人は真に成長していくように思うのです。

人間の体験には一切の無駄がなく、その体験は必ず誰かに活かせるものですから自分の体験を大切にしていくことが何よりも自分と向き合うことだと私は思います。

自分自身の人生と向き合うというのは、自分の体験を真摯に味わい尽くすということです。

引き続き子どもたちに自分の人生が活かされることを念じて、実践を味わっていきたいと思います。

美しい関係

聴福庵には古い箪笥がいくつかあります。すべて古いもので大正時代や明治時代、江戸時代のものがあります。桐箪笥に洋服箪笥、水屋箪笥、どれも経年変化した飴色の美しいものばかりです。

特に滋賀県から来た100年前の水屋箪笥は、届いたときは長年使われずボロボロでしたが今では磨き直し甦生し沢山の和食器や陶器を保管してくれています。廊下に置いてある桐箪笥は陰翳を浴びてしっとりとしています。洋服箪笥は、来客や私たちの大切な衣服をかけてくれます。

この箪笥というのは単なる収納ではないことは、古民家の箪笥を観ているとよくわかります。

柳宗悦氏に「用の美」という言葉があります、そこにはこうあります。

「されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。」

道具は使う人と離れることはなく、使われることによってそこに美しさが顕れます。お互いに関係を持つというのは、時として傷つけあい、時として励まし合い、助け合います。

この関係を築く、その関係を美しく保つ、ここに私は用の美を思うのです。

以前はどのような主人と一緒に暮らしをしていたのか、どのような主人と共に思い出を残してきたのか、古い道具は触って磨いているとこちらに語りかけてきます。おかしいと思われるかもしれませんが、時折寂しくなったり、時折歓んだり、時折穏やかになったりと、その空間に流れる時を感じると懐かしい情緒に充ちてきます。

私たちは、絆を結び、つながりを持つことでお互いを活かしあいます。活かしあうとうのは、活きているというこで自然のありのままの姿になります。活かしあう関係というのは、ある時は自分が相手の中に顕れたり、相手が自分の中に顕れたりと互換性を持っています。つまり自分が道具を創造したのであり、その道具によって自分が創造されていくとも言えます。

道具は主人を代々換えてはいつまでもいのち続く限り遺っていきますが、これは言い換えれば私たちにとっては「ご縁」とも言えます。どのようなご縁を持つことでお互いが成長していくか、そのご縁の不思議さと霊妙さに結ばれて今の自分が活きて活かされていることを自明するのです。

美しいという言葉は、ご縁の中にあってはじめて光り輝きます。

引き続き、懐かしい心を洗い清め磨き直しながら子どもたちの未来を切り拓いていきたいと思います。

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暮らし~人生至高の錬磨~

古民家甦生を通して暮らしを実践していると「もったいない」の意識が変化していくのがわかります。例えば、それまでは日常の生活の中で「いのち」などを意識しなくても様々な道具も食材も建築物もそのまま頭の中の知識の一つとして無造作に扱っていましたが、実際に暮らしはじめていくと全ての生物非生物にいのちが宿っていることに気づけるようになります。

この日常の暮らしの実践というものは、私たちにいのちの存在に気づかせ、そのいのちをどのように活かしていけばいいかを学び直す人生至高の錬磨になります。

昔の人々は、建物にもいのちがあると考え、寺社仏閣にはご本尊があることが観えたといいます。それは太古の昔から、大きな樹や大きな岩、また滝や川、あらゆる自然の中に神や精霊を見出しそれを祀っていたのを観ても感じます。

こういうものを感じなくなってしまったのが現代であり、太古の昔はそれを身近にいつも感じて慎み深く恭しく謙虚に生活を営みました。この暮らしというものは、私たちはあまり議論にもしなくなりましたがそれまで観えていた世界を観なくなったというのが暮らしの消失でもあります。

如何に自分を磨いていくか、如何に自己を鍛錬していくか、人生修行、人生道場においての道場はこの暮らしの実践にこそあるように私には思えるのです。

同じもったいないというものであったとしても、ある人はそのものを別のものに見立てていのちの寿命を伸ばします。またある人は、そのものの手入れを怠らず何世代も活かし続けて甦生させていきます。

これはすべて暮らしの実践によって磨かれた人格であり、私たちの先祖はいのちをどのように活かすか、いのちをどのように伸ばすか、いのちをどのように甦生させるかといういのちと向き合ってきた民族であったのは明白です。

これらのいのちの暮らしがなくなれば、私たちはいともたやすく精神を損ない、魂が枯れ、心が疲れていきます。今の時代の忙しさの元凶は何か、魂が病んでいる人が増えたのはなぜか、精神が怠惰になってしまうのはなぜか、これは暮らしの喪失によって行われていることに気づかなければなりません。

日々の暮らしはいのちを学ぶ道です。

そのいのちを学ぶ至高の道場が家ですから、どのように家で暮らすかはその人の人生に多大な影響を与えます。家が先生であるという理由は、ここに極まります。

人生にとって一番長い時間は暮らしをしている時間です。この時間にどのような暮らしを実践するか、それを人生とも言います。経済優先、スピード重視、効率効果ばかりが叫ばれる自転車操業の世の中で人類は一度立ち止まり、自らの暮らしと向き合い見つめ直す時機に来ているように思います。

引き続き暮らしの実践を通していのちの甦生、人々の甦生、子どもに譲りたい未来のためにたゆまず磨き深めていきたいと思います。

 

古き新しき道

「自然」とかいて「かむながら」と読んだ人物に文人の保田與重郎がいます。私は今から5年くらい前に、近江八幡宮で保田與重郎が書いた石碑を見て感銘を受け、その後、義仲寺にて松尾芭蕉の隣にお墓があるのを見つけ、さらに自然農の田んぼがある奈良県桜井市に生家があったりと色々と深いご縁を感じます。

私の意訳ですがこのかむながらというのは、漢字では随神とも書き、ここでの神とは自然、その自然に遵うと読んでかむながら、つまりは自然と一緒一体に永続している道そのもののことを指します。

私たち日本人の親祖の初心を、そのままに子孫の私がその道を受け継いで歩み続けていくというのがこのかんながらの道の意味です。日本人にとっては、道=かんながらであり、自然体で生きることこそが連綿と続けられてきた営みであり暮らしです。

自然から離れて自然と対立して、自然を征服して生きるのは私たち本来の道ではなくそれは別の人たちが歩んできた道でもあります。どの道を選ぶかは自分次第ですから、いくら路面を塗装され塗り固められたとしても時間が経てば必ずその路面は剥がれ本来の土が出てきます。

ここに果たしてかつての古道があったかどうかは、その道を志す人たちによって探し出され必ず復活していきます。そしてその復活の兆しは、消えかけてもなお遺る道しるべによって顕現していきます。

自然は太陽が同じ軌道を廻るように、地球が循環を已まないように、宇宙が流転し続けるようにそこには目には見えませんが確かな通り道が存在します。

引き続き、初心を忘れずに一歩一歩脚下の実践を踏みしめながら古き新しき道を前へと進めていきたいと思います。

 

 

変化を楽しむ~柔弱の徳~

植物を見ているとそこにとても柔軟性があることを感じます。特に新芽の頃の植物はとても柔らかく弱くできています。しかし様々な自然の猛威も受け流し、また虫たちの餌になっても旺盛な成長力でリカバーしていきます。

老子は、柔弱の徳といって柔軟性があるものがもっとも変化に強いということを言いましたがそれは植物たちの生き方を見ていれば一目瞭然です。老子はきっと植物たちがどのように自然に調和して生きていたかを学んでそれを通訳していたのだろうと感じます。

この柔軟性は言い換えれば、自分の方を変化させていく素直さといってもいいかもしれません。これがダメならあれでいこう、あれもダメならこれでいこうと様々な手を持っているということでもあります。これは常に変化は来るものとして準備を怠らず精進して変化が来たら謙虚にどう本質を維持しながら道を深めさらに柔軟に対応していくかといった学問を実践し続けているということです。

道は続いていますからその道を歩んでいく中で初心を忘れずに一つ一つのことを意味付けしては、その道中に出てくる障害や困難を乗り越えて進んでいかなければなりません。

その際、そこで簡単にあきらめてしまったらそこから前へは進めなくなります。その時こそ、先ほどの柔軟性が必要で変化し続けて福に転じ続けて七転び八起きして歩んでいくのでしょう。根無し草であれば、風が吹けばどこかに飛んでいきますし、もしくは土からの養分を貰えなくなってしまいます。だからこそ困難を糧に根を張る精進は、忍耐によって培われそれは初心を忘れないことの連続によって養分を吸い上げていきます。

どんなことが来ても変化していけばいいという最初から自然に抗わず逆らわない生きる姿勢の中に、相手を尊重し畏敬の念を持ち常に成長していこうとするいのちの姿が観えてきます。

いのちは成長することを求めるとき無限に養分を得ていきます。

逆に成果主義や効率主義、効果主義などプロセスよりも簡単便利に走るときに養分は得られずいのちは枯れていくように思います。如何に自分を磨き続けるかは、その初心や理念に対して日々の変化にどれだけ柔軟性を発揮していくかということに尽きるように私は思います。

磨くことが柔軟性ですから、矢印は自分に向けて自分磨きを怠らず自然を尊敬する真心のままに変化を楽しんでいきたいと思います。

本来の家

家というものを考えるとき、民家とは何かとそれを大きく観てみると一つの考えが出てきます。その考えは木々や植物のようにその土地に根付いているということです。

本来、家は動くものではありません。その土地に根付き、その土地の上に建ち、その土地に息づいていきます。その土地にあるものを私たちは故郷といい、懐かしくそこにいるだけで不思議と落ち着きます。

古民家甦生を実践していると、樹齢の長い大樹の存在を身近に感じます。

大樹は土の中でしっかりと根を張り、土の中に様々な菌類や虫たちの家を形成します。長い年月をかけてつくられたその土中の家はまるで生き物たちの楽園になります。生き物を守り育て、その生き物が何度も何世代もいのちの廻りを繰り返せる場所、それが本来の家の役割でした。

今の家は果たして本来の家を為しているのでしょうか?

私たちは自然の生き物から家を学びました、その家はその風土と密接であるのは土の中とつながっているからです。最初の竪穴式住居にはじまり日本建築はすべて土と密接に関係しています。

日本人のアイデンティティが失われてきているといわれる昨今、本来の家とは何かということをもう一度考え直す時機が来ているように私は思います。

民族の家、その民家には永年大切に守られてきた暮らしがあります。その暮らしは、風土の教えや風土のいのちと切り離されることはありません。

すべての生き物たちの家を保証する上にはじめて本来の家があることを忘れてはいけません。

引き続き、本来の家の形を学び直していきたいと思います。

 

 

本質と勇気

昨日は、「大切なことを忘れないDAY」として社内で東日本大震災の振り返り、またカグヤの防災とは何かについて話し合いました。

以前の震災の時は、原発事故もあり全員で福岡に移動しそこで約2か月間ほど避難しつつ東北の取引先に手紙を書いたり物資を調整したりとしました。ただ真っ先に東京から自分たちだけ離れたことで、周りからは逃げたと噂され、卑怯者だと罵られ、その当時は深く心が傷ついた記憶があります。

私たちの会社の理念は子ども第一義、もしも子どもだったらと考えた時に如何に自分たちがその姿勢を見せるかということを優先しています。もちろん、逃げられない仕事もありその場合は仕方がないのでしょうが私たちの場合は生き方と働き方で貢献しようと決めていますからその一つ一つの判断が未来の子どもたちの指標になっていきます。

長い目で観た時に、子どもたちはこの地震や津波をふたたび体験するかもしれません。その時はもうすでに私たちはこの世にいないかもしれません。しかしその子どもたちにとって自分たちがどのように対処したか、どのような姿勢で臨んだかはきっとのちの世代のための貴重な糧になるはずです。

自分くらいという生き方ではなく、将来の子どもたちのことを考えたうえで自分がどう生きるかということの方が子ども第一義を掲げる私たちにとっては重要なことなのです。

世の中の常識に如何に負けず、周りの批評や非難を受けても本当は何かと本質を貫けるのは勇気のなせる業のように思います。

最後に、朝日新聞の天声人語の記事を紹介します。

「1966年羽田空港でカナダの旅客機が濃霧で着陸失敗。
64人が犠牲になった。
その事故の直前、ハワイから飛んできた日航機が二度の着陸を試みるも断念して福岡へ向かった。
ハワイから8時間もかかって羽田まで来たにもかかわらず福岡へ向かうことに乗客は落胆する。
福岡では入国手続きに手間取ったため、乗客の憤まんはピークに達する。
その時、空港のテレビで炎上するカナダ機を目にする。
憤まんは機長への感謝に変わった。
そして「臆病者と言われる勇気を持て」という格言が航空界に広まった。
最近の山や海の事故や大雨などの気象災害を見るにつけ、臆病なほど相手(自然)の機嫌をうかがう心構えが肝要である。…と結んでいる。
自然を次々と破壊して、自然と称した人工物を自然と勘違いしている今の人間たちを本物の自然は寛容に許してはくれないようである。」

ここには臆病者と言われても、自分の考えを貫き通す勇気、弱虫と言われても、率先垂範して逃げる勇気が観えます。勇気とは決して野蛮で勢いで行うものではなく、自分の弱さと正面から向き合ってはじめて人は本物の勇気を持つことができるように私は思います。

勇気は問題意識と危機感、そして現実の直視からはじまります。引き続き子どもたちのためにも、想定外に備えて初心をいつまでも忘れないように実践を続けて積み上げていきたいと思います。

楽観性

想定外という言葉があります。

人は想定内の出来事に対しては準備していたといいますが、想定外のことだったので仕方がないとも言います。しかし本来、生きていたら想定外の出来事ばかりが起きるものです。

だからこそ想定外に備えることを本当の準備とも言います。

例えば、事故や災害なども同じくある日突然発生するものです。最悪の事態を考えておけば、それなりに日常を気を付けますがそこまで考えることをなかなかしないものです。それは決して楽観的なのではなく、単に思考停止しているとも言えます。

本来の楽観的というのは、最悪の事態を想定した上で最善の準備を怠っていないときに出てくるものです。なぜなら楽観性というのは、善いことになると信じている境地があるということでそれはどんなことがっても転じ福にしていこうとする日ごろの実績を積んでいるからでもあります。

突然人間は楽観的になれるのではなく、日々の小さな積み重ねによって楽観的になるのです。その積み重ねは常に真心を盡した分だけ楽観的になれるように思います。

大事なことを忘れないために続ける実践もまた、その積み重ねの一つになります。

想定外に備えるというのは、すべてのことは想定外であるという謙虚な姿勢を忘れないことかもしれません。常に教えていただいている、また間違っていることを気づかせていただいているという生きる姿勢が想定外に備えることのように私は思います。

論語にある、「学べば即ち固ならず」はその謙虚な学びの姿勢こそが視野を広げてくれるということを伝えているようにも思います。

常に学び続けているか、常に深め続けているか、そこに楽観性の本質があります。

引き続き、大事なことを忘れず楽問を実践する日々を歩んでいきたいと思います。

道中

古民家甦生をやっていると、色々と周辺の人たちには何をするのかと聞かれます。直してどうするつもりかと尋ねられることはあっても、なぜ直しているのかとはなかなか聞かれることがありません。

私にとってはこの古民家甦生のプロセスの中に、日本人の生き方や民家の暮らしの尊さを学び直して自分を直しているのであり結果はその直した後に自然に出てくるように感じています。

直すというのは、こちらが直しているのか、それともこちらが直されているのかというものがあります。自然農も同じく、私が田んぼを作り直しているのではなく田んぼによって自分の方が直されていくのです。

相手が自然や伝統である場合、ズレてしまっているのは自分の方であることに気づきます。自分が不自然になっていないか、自分がつながりを見失っていないか、一つひとつの体験を通してそのことに気づいていくのです。

ある人にとってはこんなに田んぼを遊ばせてもったいないや、古民家をお店として利用しないでもったないなどと言われることもありますが、私にとってのもったいないというのはこの取り組んでいるプロセスがもったいないと感じるのです。

もちろん結果や収穫、家が完成するのもまたうれしいのでしょうがこの取り組んでいる最中こそが有難く、心豊かで仕合せを感じます。古民家甦生などは一年でよくもここまでやったなと周囲に言われますが、これは結果に対して焦っているから早く完成しているのではありません。

私にとっては自然農も古民家甦生も大変ですが取り組むたびに新しい発見があり楽しく、そして好きで好きで仕方がなく、やっていることで学問の悦びを感じます。周りからは急いでいるように見えても、私にとっては四六時中同じことを考えていますからそのどれもがかんながらの道に観えています。

道楽というのは、来たものを選ばずにそのどれからも学び続けている幸福の中にいるということです。

また仲間がいるから、家族があるから一緒に道を歩める仕合せがあります。

引き続き、子どもたちのためにも目的を大切にして結果を求めずに求道し続けていきたいと思います。

 

民の道

民族のルーツをたどっていくと、それぞれの民族に発祥があることに気づきます。それはその土地の自然風土の中で、何とつながり、何と絆を結んだかという自然との共生により発生したものです。それをより深め、子孫へと伝承してきたのが発達であるとも言えます。

そう考えてみると、多様性というものはその土地や風土の変化に合わせて自分たちが変わり続けていることを知ります。その土地の生き物たちが場所を超えて巡り合う時、様々な化学反応が起きます。そして破壊と創造をくりかえし新たなものがそこに発生します。

連綿と続いてきたその民族特有の血脈は、見た目には失われているように見えてもそれはなくなってはいないものです。その証拠に、私たちは伝統や歴史、先祖たちの生き様や文化に触れると魂が揺さぶられる感覚があります。つまり本物に触れることができるのです。

例えば、アラスカの土地でアフリカの文化をみても私たちはそこに違和感を感じます。しかしアフリカの土地でアフリカの文化を感じると私たちは感動します。それは自然と結ばれてきた人々の暮らしが文化に残存するからです。

長い年月をかけて、風土と共に経年変化した味わいというものは偉大な化学反応でありその壮大なスケールに私たちは畏敬の念を覚えるように思うのです。

一代でなしえないことを、何世代もかけて順応させていくという智慧は地球の成長と変化に結ばれ自然と共生してきた私たちのいのちの本質なのでしょう。

目先の大きな変化が変化のすべてだと勘違いしてしまいますが、実際の変化とはもっと悠久の年月をかけ壮大なつながりの中で行われているものです。自分の中に流れている血に民族の魂と志を感じます。

引き続き、周りから誤解されて理解されなくても自分の進むべき道を迷わずに歩んでいきたいと思います。