志の反物

人が事を為す大小は、その人の志の高さや広さによって異なるものです。どんなに世間から小さいことと思われるようなわずかな実践であったとしても、その人の志が偉大であるのならその実践はとても偉大な実践になります。

例えば、ある人は日本を美しくしようと日々の小さなごみを拾い続けている人がいます。ある人は日本にかつての森を取り戻そうと日々に小さな木を植え続けている人がいます。

その人の行為は傍から見れば単なるごみ拾い、そして植林作業のように観えたとしてもその心が目指す目的を観れば如何にその小さな作業が長い年月をかけて偉大なことを為しているかに気づくのです。

実践の価値とは、その人の志の行動の積み重ねによって出てきます。その人がどんな「思い」を積み重ねているか、その人がどんな「願い」を折り重ねているか、その人の心が向かう夢に対して希望の糸を紡ぎ、志の反物を織り上げていくのです。

実践を馬鹿にする人がいますし、そんなことをして何の意味があるのかと批評されることがあります。しかしその人は実践の表面上のものを見ているのであって、その人の志を観ているのではありません。

私は実践を馬鹿にしません。

なぜならその人の実践は、その人にしかできない志の反物を織り上げていく一期一会の邂逅であり、それがどんなに上手かろうが下手であろうがその人にとってはかけがえのないいのちを注ぎ込んだ大切な志だからです。

志を抱き志を守るのは実践を継続していくからです。

実践の継続ができる人は志を自分自身が守ろうと努力を惜しみません。自分で決めたことを真摯に継続することで忍耐力が育っていきます。その忍耐力が継続力を活かし、竟には目的地に到達するようにも思います。

また有難いことに周囲の方々も、その志に共感してくださったり、憐れんでくださったりして協力し助けてくださいます。

一人の人生の一つの実践が世界を変えてしまうこともある。

だからこそ今日も志の反物を丁寧に実践を通して織り上げようと思います。その志の反物は、いつの日か空間をきっと美しく飾るでしょう。子どもたちのためにも今を紡ぎ続けて編み続けて、心の情景をこの世に映し出したいと思います。

 

自然を理解する力~一円融合の智慧~

日々に囲炉裏で炭を熾していると、その炭にそれぞれの特徴があるのを感じます。その炭の個性一つひとつを使っているうちに理解し、どのように配置すれば最後まで燃焼するか、どれくらいの時間を要するか、火加減がどうかなどわかってきます。

私たちは炭は炭、水は水と簡単に仕分けていますが同じ炭や水はなく全てのものには特性があり個性があるのです。それをどのように活かすかはその人がどれだけ心を寄せてそのものに接してそのものを丸ごと理解しようとするかに由ります。

言葉で理解しているのは頭ですが、頭では個性までは理解できません。それが言葉から理解しようとするときに出てくるのが分かります。空も山も川もすべては一つの個性でありその個性をどのように感じるかで本来は名前ができてきたのです。

昨年、訪問したアイヌではさまざまな言葉がありました。例えば、川もアイヌ民族に言えば生き物であり個性があると観えていました。アイヌにとって川は基本的には女性であり、肉体をもち生殖行為を営み、子を産み、親子で、 山野を歩くものと考えられていました。

アイヌ語の「川」には「ベツ」と「ナイ」の2種類あり、「ベツ」は水かさが増すとすぐに氾濫してしまう危険な川、「ナイ」は岸がしっかりしていて、洪水に強い川としました。また「水」にも「ワッカ」と「ベ」という2種類あり、「ワッカ」は飲める水、「ベ」は飲めない水を指します。アイヌには無数の川の名前が存在します。

その川がどのような個性があるか、その川に親しむ中で自然の名前が出てきます。これは先に人間が言葉を使って仕分けたのではなく、自然にそのものの個性を名前にしていることに気づきます。

私たちは先に分類を分け、その分類に無理やりにそのものの個性を従わせるような考え方を持っていますが本来はそのものの自然な姿に名前を付けることこそが自然を理解する方法なのです。

自然を理解する先祖からの智慧を捨て、教科書通りや世間一般で決められた知識にばかり頼っていたらその代償して失うのは個性を理解する力です。

個性を理解する力とは、そのものをあるがままに丸ごと親しむ力です。

これから原点回帰する時代を生き抜く本物のリーダーは、すべてのものや人の持ち味を活かし調和させていく力が必要になります。その時のリーダーは決して分類分けしてそのものを見ることはなく、そのものの特性やあるがままの個性を活かしあって状況の変化によってさまざまなものに見立てて調和融合する観点が必要です。

その観点はかつてのご先祖様たちの生きざまのように自然に溶け込み、自然と調和して暮らしてきた智慧から学んだものです。

現在の暮らしの甦生を通して、私たちのリーダーとしての調和能力を高めるだけでなく自然のことを深く理解し、自然を活かして万物を一円融合する力をも磨いているように思います。

引き続きそのものの個性に親しみ、見立て、丸ごと活かす感性を自然に溶け込み自然に寄り添い自然から学び直していきたいと思います。

恩返しの実践

人間には自我がありますから見返りを求めようとする感情があるものです。よくあれだけしてあげたのにとか、せっかくこうしたのにとか、この「のに」が文章の最後につくのは自分が相手に何かをした行為に対してその見返りを期待しているからのように思います。

感謝や恩返しの気持ちが薄まればすぐに人間は自我に呑まれていきます。そして権利を主張したり、義務を押し付けたりし合えば残念なのは真心だったものが見返りを貰うためにやってしまったことにすげ代わってしまうことかもしれません。

なぜそのように見返りを求めてしまうのか、それは「恩」といった心を見失うからのように思います。よく報恩感謝という言葉もありますが、感謝している心はいつもいただいた恩に報いようという心とセットです。

つまりは今の自分があるのは、多くの方々が自分を助けてくださり支えてくださり学ばせてくださり育ててくださった御蔭様の恩に包まれていることを自覚し、その頂いた恩を自分のものだけにせずに少しでも多くの方々に恩返ししていきたいという心が見返りを求めない人間にしていくからです。

見返りを求めないというのは、「ただそうしたかったから」や、「いつも自分の方がよくしていただいているから」といった奉仕の気持ちに満ちています。自分を捧げ切る生き方というのは、感謝や恩返しに生きる生き方のことです。

人間は誰しも自分というものがあります、しかし自分のことを愛しすぎればそれは保身や自己中心的になり周囲に迷惑をかけていることも忘れ自分のことばかりを考える人になってしまいます。

礼という言葉がありますが、これは相手や周囲に対する礼だったものが、相手からのお礼を期待したり、交換条件を押し付けたりすればせっかくの恩が恩ではなくなり、それが恨みや仇、敵対する存在に換えてしまいます。

人はいいけれどなぜか敵が多いとか、いつも相手の気分を害して嫌われたり、他人と一緒に仕事ができない人の特徴はこの自我が強く見返りを期待していることが多いように思います。

毎日は今までの恩返しと、見返りを求めずに自分のことを気にせずに誰かのためにと思いやりと真心で生きる人には常に恩恵は降り注ぎます。受け皿がなければその慈雨は受け取れませんから、その受け皿を大きくするしかありません。

その受け皿を大きくするのは、利他の実践、真心の実践、常に恩返しに生きて多くの人たちのために自分を活かしていこうとする生き方の質量によって受け皿は広がるのでしょう。

お皿は何を載せられても文句はありません、ただ只管に載せられたものを大切にするだけです。そのお受けする人生には、一切の文句も不満もなく、いただいたご縁に感謝していくのみです。

ある歳を越えれば自分が周囲の恩恵で活かされていることに実感していくものです。引き続き子どもたちにこのいただいた恩恵が譲っていけるように日々に恩返しを盡していきたいと思います。

おもてなしの本質

「お客様は神様です」という言葉があります。これは商売の間では、一般的にクレームの声や様々なアドバイスや利益をいただけるお客様はまるで神様のようであるというように使われているように思います。

しかしこの言葉を使い広がった起因となった歌手の三波春夫氏は、お客様は神様であるという意味をこう言います。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

しかしこの本意がなかなか伝わらず三波春夫氏は説明に苦慮されたそうです。それが下記の問答の中にも残っています。

『ある時こんな質問を受けたことがあります。「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」』

信仰するということの意味から離れて、個人の損得のみで判断する世の中になっていく中で本来の「神様に対する姿勢」という畏敬の念もまた失われてきたのかもしれません。

この神様に対する姿勢の中で日本民族の代表的な言葉に「おもてなし」があります。広辞苑ではとりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇 馳走、饗応など書かれます。真心を持って気遣いや心配りをする生き方のことで日本人の徳性の一つです。

このおもてなしは、裏表なしの「おもてなし」とも言われます。裏のないあるがままの純粋な心のままに気を配るということです。ここに私は先ほどの神様が深く関係していると感じるのです。

日本では古来より、神事や御祭において神様を自然の場所から御社へと御迎えして「おもてなし」を行います。供物や神楽をはじめ素直な心で真摯に感謝の念を伝えます。この時、私たちが実践しているのは「神様をもてなす」ことであり、「お客様は神様」になっているのに気づきます。

お客様が神様であるというのは、私たちのご先祖様が常日頃から生活文化の中で「暮らし」を通して自然に実践を積み重ねてきたものであり、世界に誇る真心の接待は神様をお客様として御迎えするなかで伝承されてきた「生きざま」だったのです。

しかし今では、御祭りの意味変わり、個人主義が蔓延し、人間のみを相手にサービスばかりを増やしては満足度を気にしているようでは「お客様は神様」の意味もまた変わってしまうのでしょう。

どれだけ相手を卑下せず尊重して自らの姿勢を正すか、畏敬の念で相手の心に寄り添い丹誠を籠めて真摯に尽力しようとするところにその人たちの目線の丁重さを感じます。低姿勢の人はみんな生き方が謙虚であり、相手のことを慮り思いやる素直な姿勢を持っています。

常に自分の姿勢を省み、全てのいのちを神様だと思いそのお客様に仕える心で生きていきたいと感じます。ご先祖様たちの大切にしてきた暮らしを守っていきたいと思います。

自由と言語化

人は自分の考えを自分の言葉で語れるというのは大切なことです。他人との対話は自分との対話でもあり、その対話を明確にしていく人は自他の考えを言語化することができるからです。

例えば、自分の経験からの暗黙知であってもそれを言葉に言語化する過程の中でその価値や智慧は可視化されていくものです。特に思考はイメージですから、それをどれだけ言語化できるかはその人の中でどれだけ明確であるかを証明することができます。

私は仕事で理念を紐解き、それを誰にでもわかるように説明していきますがそれは単に理念を語る人の代弁をしているのではなくその理念を語る人のことを深く理解し、その人の解釈を自分なりに言語化しているとも言えます。

その言語がより鮮明で明確であればあるほどに、周囲にその価値を明瞭に語ることができます。この曖昧なものを言語化する力は、自己との対話によって行われていくものです。

そしてその対話において大切なのは、真理を深掘っていく力、真実を探求して境地を体得する力、もしくは本質に徹底してこだわる力、もしくは道を極めていく力のようにも思います。

言語化するためには、その人が真理に精通していることだったり、本質が分かることや、自然や本物の中心が分かる、などのように自分自身に主軸が立っている必要があります。

それは単に自分の価値観に詳しいだけではなく、人間とは何か、自然とは何か、真理とは何かという哲学や思想を持っているということです。自由というのは、他人から与えられるものではありません。本当の自由は自分自身が、どのような世界、どのような環境であったとしても、自分自身を自在に変化させて心の在り方を変幻自在に調整して調和していくときに実現するものです。

そのためには、本質を守るために何を換えればいいか、本物であるために何を変えればいいか、常に自分の中心を守るための柔軟性が必要になります。そういうものを理解していくときに、分類分けされた知識としての言語をどれだけ「自分のもの」にできているかということが言語化からわかるのです。

一人一人が真理や本質を言語化できるようになる課程で実践が生まれ、そこに道が開きます。言語化された理念や初心を実践するということは、その人が自分自身の中の言語を本質に近づけていく努力でもあります。

引き続き、道に入り道を高めることができるように本質を磨き上げ本物に近づいて自然体のままで歩んでいきたいと思います。

原点回帰とは

今というものを紐解いていくと、それは過去のある時点での決心の延長線にあるものだと気づくものです。今の自分が存在する結果は、かつて蒔いた種が実っているということになります。そしてその種ともいえる動機を初心とも言い、それを原点とも言います。この原点を忘れないままでいると、自分の根がどこに伸びているか、そしてその根がどのように何を吸収しているのかを自分で理解できるようになります。

例えば、自分の根の成長を省みると自分の信念や理念、その初心とつながりそれが困難や苦労によって下へ下へと根が広がっていくのが分かります。そして根は養分を土の中から上へ上へと土壌の水分などを吸い上げていきます。

それが「いのちの成長」でもあります。

私たちは表に出て変化している部分と、表には出ませんが土の中で成長していく部分があります。これは植物で比喩していますが、見た目と内面の変化とも言えます。

原点を持つというのは、この根を深めるということにおいて何よりも重要になります。根を深めるとは、原点回帰をすることであり、何のために自分が今これをやるのか、なぜこれを今やるのかと、常に自分の根を張り巡らせてしっかりとその場所に根付いていくことです。

根無し草や根が弱ければ、ちょっと風が吹いたり嵐がきたり、困難があるとあっという間に吹き飛ばされたり折れたりして枯れてしまいます。そうならないように、その場所に深く根を張ることで困難を成長の糧にし、艱難を持って信念を醸成するのです。

人が自分の根をそうやって深く掘り下げていくように、組織もまた同様にみんなで深く根を掘り下げていきます。そうやって繰り返し、植物たちのように「いのちの廻り」を繰り返しているうちに土壌は発酵し様々ないのちをささえる楽園になっていきます。そこに他のいのちが活かされ、そこはまさに生き物たちのユートピアになるのです。

原点回帰というのは、それぞれが自分の価値観よりも少し大切なものを持つということに似ています。また自分の価値観よりも優先するものを持つということ、言い換えればこれだけは譲れないと思っているものを持っているということです。

この原点を大切に守っていくことが原点回帰であり、時代の変遷の中であっても不易と流行のように変わるものと変わらないものをちゃんと回帰しながら歩んでいくということです。

この「回帰」というのが、初心に帰るという意味であり理念に立脚するという意味です。

引き続き、人間の一人一人が幸せに生きていく社會、やりがいと生きがい、誇りと安心立命できる豊かな社會を目指して、原点回帰の実践を仲間と一緒に取り組んでいきたいと思います。

 

個性を伸ばし、魅力を活かす

人間には誰にしろ欠点というものがあります。言い換えればこれは個性があるということで、その人にしかできないことが外に顕れているということです。

私たちの会社は個性が強い人たちがたくさんいます。みんな最初は今の日本の社会教育の中で揉まれてきていますから自分らしくいることを隠そうとしますが、安心してオープンな風土が醸成されている中に入ると自ずから自分の個性や特性が引き出されていきます。するといろいろな事件が発生してくるものです。

例えば、価値観の相違からくるトラブルであったり、一般的にはないような出来事を突然やったり、ちょっと変人だと思われるような言動があったりと、世間常識から少しずつ逸脱していくのです。

言い換えれば、最初はその人の欠点や短所が次第に出てきます。気になるところが増えていくのはその人の個性が出てくるからです。最初は気になるのは自分が変わらなければならないからで見方の転換時期が近づいてくるからです。そしてその人の持っている美点も同時に引き出されてきてその人のことが丸ごと理解できてくるのです。その時、その人の本当の魅力に出会えます。その人を単体で観て、その人を矯正しようと考えるのならばその欠点はない方がいいように思います。しかしそれをしてしまうと、その人は欠点が消えてきますが同時に美点も消えていきます。

美点も欠点も消えた人には個性がなくなってきます。個性がなくなってくればその人の魅力もなくなってきます。人間は欠点があるから助け合うことができるのであり、美点があるから尊敬し合うことができます。

本来、個人主義で個だけを完璧に仕上げていくという発想は一人で生きていくときのやり方です。しかし協働で協力し合っていくといった共同の中でみんなで生きていくときのやり方は個を完璧にするのではなく、個は完全であるという発想になっていきます。

つまりはその人のままでいい、あるがままのその人を活かすという考え方になっているのです。個がバラバラになって個だけが天才がいても、その天才を活かせる周りの人たちがいなければその才は活かせません。

しかしみんなで力を合わせて才を活かしあえばそれはみんなが天才になったと同じ意味になります。これを協力天才ともいい、集合天才とも言っていいかもしれません。衆知を活かすという考え方は、皆で協力すれば欠点は美点に、短所は長所になるということです。

そのためには、リーダーをはじめ仲間たちがないものを探すのではなく「あるものを活かそう」という哲学を身に着ける必要があります。同時に、自分自身に対してもないものを補おうという発想ではなく、「あるものを伸ばしていこう」という積極的で前向きな生き方への転換がいります。それは利他に生き周囲を活かす生き方に変わるということも意味します。

いつの時代も、物語もロマンも豊かな人生もそれはすべて道と友、仲間との暮らしによって得られます。何を大切にして生きていくか、、、その問は出会いの邂逅や天命の成就によって答えが出てくるものです。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方ができるように理念を優先して精進していきたいと思います。

暮らしの本質

世界には様々な民族が生まれ、多様な文化が醸成されてきました。それはその土地や風土に影響を受け、それぞれの歴史を経て発展してきました。日本においても、地域性の中で生まれた風土や様々な人たちが混じり合うことで変化成長を続けてきたとも言えます。

今では宗教や文化などと呼ばれ、特別なもののように差別化されていますが実際には「どのように暮らしてきたか」という民族のシンプルな生き方を示していたのです。

例えば、どのようなものを食べ、どのようなものを着て、どのようなところに住んだかという衣食住をはじめ、何を信じてきたか、どんなものに感謝を持ったか、またどのように育児をしたかなどこれらをひっくるめて「暮らし」を行ってきたのです。

人間は価値観がそれぞれ異なりますから、異なっているものを無理に合わせようとすると衝突が発生するものです。しかし、お互いにどのような暮らしをしてきたかを学び合っていくのならそれは暮らしが豊かになっていくとも言えます。

民族の暮らし方というのは、智慧の宝庫であり、どのように先人たちがこの風土の特性を活かしてそれを生活の中に取り入れてきたかという創意工夫のあり方を示しています。

今では地域や風土につながる暮らしは不便だからと排除し、人間にとってもっとも便利なやり方を同一に行うような社会にしています。機械や道具、電気を使ってどこでも誰でも同じやり方で衣食住を実現しています。そこにはかつてあったような「暮らし」は失われ、先祖が磨き上げてきた自分自身に流れている民族の生き方も感じられにくくなっています。

民族の暮らしが私たちの個性を醸成したのであって、その個性が失われるというのは自分が今までどのように生きてきたかという智慧を失うことです。生き方というのは生きざまであり、例えば感謝して歩み続けてきた先祖の畏敬の念を忘れるというのはそれまで生き残ってきた方法を亡くしていくということと同じなのです。

人は自分の生き方が子孫の生き方になり、自分の生きざまが子孫の生きざまになるのを忘れれば自分のことだけしか考えない人になることもあります。自分が活かされているという実感が生の喜びであり、その生により周囲を活かそうとすることではじめて「生活」は成り立ちます。この生の実践こそが生業であり、その生業を実現することが生活そのものになるのでしょう。

自分自身の生活を見直すことが民族の誇りを取り戻すことになるのでしょう。子どもたちのためにも暮らしを見直していきたいと思います。

時間の使い方~志間~

昨日、長年一緒に歩んできた理念の同志の志を確認するご縁がありました。改めて深く聴き直してみると、この期間どのような生き方を目指してどのような生きざまがあったかという時の変遷です。

人間は時間は等しく同様に与えられ過ぎ去っていきますが、その時間をどのように使ってきたかはその人の生き方で決まります。時間が同じであってもその人の時間はその人の人生になるからです。言い換えるのなら時間とは命のある時の間、生まれてから死ぬまでの寿命のことです。

そしてその時間を自分の為だけに使う人と、世の中や人の為に使う人がいます。同志は自分のことよりも誰かのため、他人のため、世の中のためにと使い切って歩んでいました。自分を捧げ切るという生き方は、頂いた命を捧げ切るという生き方でもあります。そしてそれは自分を生き切る、命を生き切るという生き方にもなってきます。

命の使い方をどのようにするかと決心することが覚悟の価値であり、その決心したままに生きることで実践が積まれ本物になっていくように思います。ここでの本物とは、素直なままの自分、あるがままの自分、天命のままの自分になるという意味です。

人は我執が強くなり、自利ばかりに傾くと天命に気づかなくなっていくものです。そして天命は自分の与えられた時間でもありますからその時間を「何のために使うのか」という自問自答は、自分の一度しかない人生を生きる上で何よりも大切なことのように私は思います。

そしてその人生をどう生きるかどうかを決める出会いや邂逅がその人にあったというのは、その人が幸運に恵まれているとうことでもあります。そしてどんな人が幸運に恵まれるかというのは、道を求め感謝の心を忘れずに素直に謙虚になろうと決めた人のようにも思います。

人間は自分の物事の受け止め方が歪んでしまうと、一つひとつの出会いを大切にできないように思います。出会いを大切にする人は、物事から逃げようとせず、避けようとせず、誤魔化そうとせず、言い訳しようとせず、ただただその出会いに感謝します。そしてその出会いに感謝できている人はそれを恩とし、その恩に感謝しその恩を自分もお返ししたいと思うようになります。

こういう生き方の態度が決まっている人は、自ずから幸運を味方につけていきます。それは周りから活かされていることを知り、その活かしてくださっている周りを活かそうと自然の流れに逆らわないからです。つまり幸運とは好循環する自然の摂理に適ってきたということでもあります。

自然の摂理に対して、自然に反して自分の方にひきよせようとすればするほどに問題が起きます。自分のことばかりを考えて自分の心配ばかりしていては不自然になります。もっと周りのために自分を活かそうとすることが自分自身のいのちを大切に使っていくことになるのです。畢竟、人間は己に克つことが肝要で日々に我執に吞まれないように、どのように時間を使っていくのかの積み重ねが最期の自分の人生を創るということなのでしょう。

同志の生き方や生きざまに勇気がもらえ元気になります。引き続き私も自分の理想とする生き方に近づいていけるようにあるがままの自分を丸ごと認め、日々の小さな心がけと志間の積み重ねを継続していきたいと思います。

機嫌好く

人には「機嫌」というものがあります。これは表情や態度に現れる自分の感情であり、その感情の良し悪し、気分の良し悪しで機嫌が分かれていきます。この機嫌というものは、自分で自覚できるものでありその機嫌をどのようにするかは自分次第で調整していくものです。

これは体の健康と同じで、調子が良い悪いはいつも出てきますからいつも体調が良い状態に維持するように努めるのは自分自身の自覚と日ごろの努力に由ります。そして自分にとって良い状態とは、悪い中でも最善を尽くしていくことや、好循環になるように気を配り続けることでもあります。

この機嫌というものは、心や精神の健康のことをいいいつも機嫌が好い人は心が健康であるということでもあります。さらには主体性が出ている人や積極的に楽観的な精神を持っている人は魂が健康であるとも言えます。日々に健康に過ごすというのは、常に自分の状態を好循環する方、言い換えれば機嫌を善くしていくことで実現するのです。

かつて中心社の常岡一郎さんがこういう言葉を遺しておられます。

「機嫌のよい心には弾力がある。 機嫌のよい時は、おい隣村まで行ってくれないか
と言われても、「よし」とすぐ引き受け、すぐ走り出せる。 機嫌の悪いときは、なにもかもおっくうになり、 重苦しく感じる。 すべての人間はいつでも、どこでも自分の心の責任者である。 心に明るさをたたえた、機嫌のよさを失ってはならない。 これを失えば人生の旅はすぐ疲れる。 それが不幸や不運や病の原因となる 。」

常岡さんはこの機嫌の好いことを「心の弾力」といいます。これを言い換えれば「植物の新芽」であるといいます。常岡さんはこれを「伸びる力」であるといいます。

そして伸びるものはやわかいといいます。

「育つもの。伸びるもの。生命おどるもの。それは常にやわらかさを失ってはならぬ。固まったら伸びない。我執は人間を堅くする。偏狭は人間の明るさを失わせる。草や木も、やわらかな間にのびる。やさしい新芽から伸びる。堅くなったら伸びることが止まる。人の心もそうである。」(常岡一郎一日一言」(致知出版社)より

自分の心の責任者は自分という言葉、これはとても大切なことだと思います。誰のせいでもなく、言い訳もしない、如何に自分自身が感情を大切にし疲れないように手入れをするかは日ごろの心がけに由ります。

いつもニコニコ機嫌よく、穏やかで明るい人は、皆から安心され信頼されるだけでなく関わる人たちを元気にしていきます。好循環をつくりだす人はみんな運が好い人であり、そういう幸運の人の周りには幸運が集まってきます。

「ご機嫌いかがですか?」というあの挨拶は、心の健康はどうですかという挨拶です。他人と会うときにはまずは自分の機嫌を自覚し、いつも快活に元気に健康に日々に感謝の念と謙虚な反省の気持ち、そして素直な実践をもって自分を磨いていきたいと感じます。

最後に常岡一郎さんの言葉で締めくくります。

「あなたはいつも上機嫌ですか、こう突っ込まれてにっこりほほ笑むことの出来る人になる。これが他人の心に明るさを与える資格だと思う。」

子どもの周囲に思いやりを運ぶ仕事をする私たちだからこそ、働き方や生き方、その機嫌の在り方が大事だと思います。子どもたちのためにも、機嫌好く笑いの絶えない現場を創造していきたいと思います。