人が事を為す大小は、その人の志の高さや広さによって異なるものです。どんなに世間から小さいことと思われるようなわずかな実践であったとしても、その人の志が偉大であるのならその実践はとても偉大な実践になります。
例えば、ある人は日本を美しくしようと日々の小さなごみを拾い続けている人がいます。ある人は日本にかつての森を取り戻そうと日々に小さな木を植え続けている人がいます。
その人の行為は傍から見れば単なるごみ拾い、そして植林作業のように観えたとしてもその心が目指す目的を観れば如何にその小さな作業が長い年月をかけて偉大なことを為しているかに気づくのです。
実践の価値とは、その人の志の行動の積み重ねによって出てきます。その人がどんな「思い」を積み重ねているか、その人がどんな「願い」を折り重ねているか、その人の心が向かう夢に対して希望の糸を紡ぎ、志の反物を織り上げていくのです。
実践を馬鹿にする人がいますし、そんなことをして何の意味があるのかと批評されることがあります。しかしその人は実践の表面上のものを見ているのであって、その人の志を観ているのではありません。
私は実践を馬鹿にしません。
なぜならその人の実践は、その人にしかできない志の反物を織り上げていく一期一会の邂逅であり、それがどんなに上手かろうが下手であろうがその人にとってはかけがえのないいのちを注ぎ込んだ大切な志だからです。
志を抱き志を守るのは実践を継続していくからです。
実践の継続ができる人は志を自分自身が守ろうと努力を惜しみません。自分で決めたことを真摯に継続することで忍耐力が育っていきます。その忍耐力が継続力を活かし、竟には目的地に到達するようにも思います。
また有難いことに周囲の方々も、その志に共感してくださったり、憐れんでくださったりして協力し助けてくださいます。
一人の人生の一つの実践が世界を変えてしまうこともある。
だからこそ今日も志の反物を丁寧に実践を通して織り上げようと思います。その志の反物は、いつの日か空間をきっと美しく飾るでしょう。子どもたちのためにも今を紡ぎ続けて編み続けて、心の情景をこの世に映し出したいと思います。