人間には自我がありますから見返りを求めようとする感情があるものです。よくあれだけしてあげたのにとか、せっかくこうしたのにとか、この「のに」が文章の最後につくのは自分が相手に何かをした行為に対してその見返りを期待しているからのように思います。
感謝や恩返しの気持ちが薄まればすぐに人間は自我に呑まれていきます。そして権利を主張したり、義務を押し付けたりし合えば残念なのは真心だったものが見返りを貰うためにやってしまったことにすげ代わってしまうことかもしれません。
なぜそのように見返りを求めてしまうのか、それは「恩」といった心を見失うからのように思います。よく報恩感謝という言葉もありますが、感謝している心はいつもいただいた恩に報いようという心とセットです。
つまりは今の自分があるのは、多くの方々が自分を助けてくださり支えてくださり学ばせてくださり育ててくださった御蔭様の恩に包まれていることを自覚し、その頂いた恩を自分のものだけにせずに少しでも多くの方々に恩返ししていきたいという心が見返りを求めない人間にしていくからです。
見返りを求めないというのは、「ただそうしたかったから」や、「いつも自分の方がよくしていただいているから」といった奉仕の気持ちに満ちています。自分を捧げ切る生き方というのは、感謝や恩返しに生きる生き方のことです。
人間は誰しも自分というものがあります、しかし自分のことを愛しすぎればそれは保身や自己中心的になり周囲に迷惑をかけていることも忘れ自分のことばかりを考える人になってしまいます。
礼という言葉がありますが、これは相手や周囲に対する礼だったものが、相手からのお礼を期待したり、交換条件を押し付けたりすればせっかくの恩が恩ではなくなり、それが恨みや仇、敵対する存在に換えてしまいます。
人はいいけれどなぜか敵が多いとか、いつも相手の気分を害して嫌われたり、他人と一緒に仕事ができない人の特徴はこの自我が強く見返りを期待していることが多いように思います。
毎日は今までの恩返しと、見返りを求めずに自分のことを気にせずに誰かのためにと思いやりと真心で生きる人には常に恩恵は降り注ぎます。受け皿がなければその慈雨は受け取れませんから、その受け皿を大きくするしかありません。
その受け皿を大きくするのは、利他の実践、真心の実践、常に恩返しに生きて多くの人たちのために自分を活かしていこうとする生き方の質量によって受け皿は広がるのでしょう。
お皿は何を載せられても文句はありません、ただ只管に載せられたものを大切にするだけです。そのお受けする人生には、一切の文句も不満もなく、いただいたご縁に感謝していくのみです。
ある歳を越えれば自分が周囲の恩恵で活かされていることに実感していくものです。引き続き子どもたちにこのいただいた恩恵が譲っていけるように日々に恩返しを盡していきたいと思います。