暮らしの美しさ~いのり~

福岡の聴福庵の玄関には、古民家甦生をはじめるきっかけとご縁をいただいた出雲大社の神様や郷里の氏神様たちがお祀りされています。暮らしの甦生のはじめには、祈りや感謝を全ての大前提にしており信仰の中でご先祖様たちが大切にしてきた理念を少しでも来庵された皆様に感じてもらう仕組みになっています。

そもそも暮らしと信仰は切り離されることはなく、祈るように暮らし、暮らしを通して祈っていたのが私たちのご先祖様でありました。

例えば、毎日の掃除も日々に暮らしていける感謝の心を磨き続けていたとも言えます。清浄で美しく手入れされた家の中のものにはその人の心がけや祈りが反映され空間にその真心が宿ります。神社や仏閣も同じく、掃除を通してその空間を維持し続けている仕組みがありますがこれもまた祈りがカタチになって顕現している暮らしの実例ともいえます。

他にも、衣食住の中に祈りを通してご先祖様がどのように暮らしてきたのかといった余韻が文化に残存しているものです。

その聴福庵の玄関には、会社の仲間たちと一緒につくりこんだ畳が敷いてあります。そして炭の温もりを感じてもらうために備長炭で装飾し、季節の室礼、それを盛り立てる器としての歴史ある陶器や花台が置かれます。

その玄関を囲うように襖があります。その襖には、伝統の京唐紙を用いることにしました。文様が施された版木から写し取られたその紙には、古来からの精神や自然をそのままに写し取った祈りが入ります。

今の時代、「美しい暮らし」と言ってもピンとこない人が増えてきたかもしれません。忙しさや便利さの中で、美しさも暮らしもその本質が変化してきているからです。だからこそ聴福庵は、敢えて玄関にいのりを中心にした「暮らしの美しさ」から入るようにしたかったのです。

その暮らしの美しさは、信仰の真心によって可視化されていきます。

本来の美のかたちは、自然を見つめ自然と接する心の模様の顕れでもあります。引き続き、子どもたちだけではなく現代の人たちが暮らしを見つめ本当の自分自身に出会えるように祈り甦生のプロセスを大事にしていきたいと思います。

いのちの豊かさ

私は鞍馬山とのご縁が深く、鞍馬のご縁で様々な教えに出会い、有り難い人にも出会います。人生の中で、これほど深いご縁をいただく山はなく、そう考えると人間はどのような師を持つか、如何に見守られている存在を持つかが生きていく上でとても大切なことのように思います。

同じ人生の道を歩むでも、善き師、善き教え、善き仲間、善き友に出会うかはどうかでその人生の醍醐味が変わっていきます。同じ志を持ち、大義に生きるものたちとの出会いは、自分の人生を豊かにし何よりも味わい深いものにしていきます。

私は鞍馬山で学び直しているのは、いのちの理です。

いのちというものは、私たちの感覚すべてで感受していくものです。その感覚は自然に包まれる感覚、活かされていることを実感できる感覚、すべてのいのちに触れてすべてのいのちと共に在るという感覚によって得られていきます。

そのように感覚が変化すると同時に視点も変化します。視点が変化すれば考え方も変化し、竟には生き方も変化していくものです。それを如何に感じやすくしていくか、その環境や条件があれば人間は美しく豊かな精神を取り戻すことができるようにも思います。

昔は、あまり物が多くはなく少ない資源の中で自然の共生環境を壊さないように人々は工夫して里山を育てその中で助け合い暮らしを充実させ心豊かであろうと生きてきました。しかし近代に入り、自然は無視してでも人工的に資源を増幅し自分さえよければいいと歪んだ個人主義や欲望を優先してでも物質的に豊かになろうとしてきました。

豊かさの中には、物と心の両面がありますが物か心かという両極端の豊かさではなく真の豊かさというものが存在するように私は思います。それは活かされているという豊かさ、見守られているという豊かさ、一緒に存在させていただいているという豊かさ、つまりは「いのちの豊かさ」というものがあるという気がするのです。

鞍馬山に来て、鞍馬寺の貫主様にお会いしているといつもそんな懐かしい記憶を思い出します。懐かしい記憶、いのちの豊かさを子どもたちに伝承できるように、私のなすべきことを真摯に盡していきたいと思います。

信仰の原点

物が溢れあらあゆるものが人間の思い通りになる世の中に入ってくると精神的な豊かさよりも物質的な科学的な贅沢の方が価値があるように変化してくるものです。昔は、まだ物がなく人間の思い通りではなかった時代はみんなあるものを上手に活かしたとえ思い通りにならなくても発想を転換したり、自分たちのものの見方を転換したりして目に見えない部分の豊かさを味わい生活を工夫していました。

今では宇宙にロケットでいける時代、遺伝子操作からAI、バーチャルリアリティとさらに物質的に人間が思い通りにできるように科学のみを発展させています。それはそれで恩恵があるのですがあ、その分今度は非科学的なものを否定して精神的な豊かさの方を排除する気風が出てきました。

少しでも目に見えない世界のことを語ると宗教やオカルトっぽいなどと言われ、気持ち悪がられたりするものです。しかし、この世の中は実際の科学でもまだ証明されていない目に見えない不思議なものに溢れています。宇宙をはじめ、生命や、自然のことなど感覚でしか感じられないものもまだまだたくさんあるのです。

かつてのご先祖様たちは、暮らしの中で自分の思い通りにならないことを悪いこととは思っていませんでした。そこには深い信仰があったように思います。

つまり自分が存在しているという原点があることをいつも忘れていなかったのです。いくら人間の思い通りになると信じてみても、水も空気も作り出すことはできません。この世の中のあらゆるものが私たちを存在させてくれていることを忘れてしまえば、人間はごう慢になって信仰もまた廃れてしまいます。

如何に信仰の原点を磨くか、それはその人たちの生き方に懸ってきます。同じものを見ても何を観て生きていくか、どんな時代になって環境が変わっても何を信じて生きていくか、そこに存在の原点があるかないかはその後の進路を大きく変えてしまうように思います。

人類は今、岐路に立たされています。

改めて自分の志が向かおうとしていることを再認識し、学び直しを大切に取り組んでいきたいと思います。

実践の背景

昨日は、同じ理念で保育に取り組んでいるお取引先の方がご来社くださり社内の見学をして帰られました。日ごろは私たちの方が訪問をして、風土や文化や仕組みを導入してそこで一緒にお話をするのですが来ていただくと改めてその実践の背景をお見せすることができます。

自分たちの体験したことや、なぜこのような実践を行うのか、また現在の課題やこれまでの経緯をオープンに伝えることで完成形でもなければ完璧でもなく、常に改善することに意味があることを私たち自身も理解します。

理念があるというのは、常に理念に応じて従い自分たちの姿勢を省みて修正改善を続けてくことであり、できたから終わりなのではなくできないからダメなのではなく、試行錯誤していく中でいつも原点から振り返り本質を維持し続けていこうと忘れないことで理念を守っていこうとする取り組みをしているだけとも言えます。

自分のものの見え方を変換したり、自分の考え方を転換するということは世界を変えていくということです。外界の世界は自分の思い通りににはならないのだから、その世界の変化に対して自分の内面をどのように変化させていくか。大切なものがあるからこそそれを守るために自分たちが変化に応じて常に今、何を変わっていけばいいか、それを学び合うことでいつまでも私たちは発達と発展を遂げていきます。

その時、どのような物差しで自分たちを磨くのか。そこに確かな理念があると自分自身の視野を超えて物事を測れるようになると思います。自分だけの視野というのは自分自身を変えるものにはならず、自分を超えた物差しや尺度を持つことではじめて自分が変わっていきます。全体最適というものもまた、どれだけ全体のために自分を優先できているかという尺度の一つです。

自分のことばかりを考えてしまうと、自利が強くなり己に執着してしまいます。忘己利他の境地のように自分のことよりももっと大きな理念や志のために如何に自分を活かしていくことができるかという課題は自分を導くためにはとても大切な実践徳目のように思います。

人は正解や成功に囚われるとどうしても自分の心配を優先してしまうものです。そしていつも正しいことばかりに固執すると、マジメになり、ないものばかりを数えてしまいます。そんな時は、思考停止してしまっていることに気づき、本当は何かと理念に立ち返り考え直す必要があります。正解よりも本質かどうかということを優先するには、魂の力のようなものが必要です。

本当の世の中は、決して自分の都合よく自分勝手になることはありませんからいいことも半分、わるいことも半分、体験を通して学びその体験を活かして意味を深く味わっていくことで変化の中り変化そのものに同化していけるのかもしれません。

「問題解決よりもそこにもっと大切な意味がある。」

そう思えるように、人生の意味を理念の物差しで常に振り返り、実践から味わい深く掘り下げてつかみ取り、それを同志や仲間と分かち合い。共に学び、共に本質そのものに近づけるように自他を分けずに一期一会の御縁を盡していきたいと思います。

 

観方、聴方

孫子の有名な言葉の一つに、「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」があります。

意訳ですが敵を知り己を知れば百戦しても危うくなることはない。もしも敵を知らないで己を知っていれば勝ったり負けたりを繰り返す。そして敵も己も知らないようでは戦うたびにいつも危うくなるということです。

この敵とは本当は何か、この敵とは相手か自分ではなく己自身の中にあることに気づきます。よく考えてみれば、外の世界や自然というのはこちらの物の見方、自分の応じ方、接し方で自分の方が変化することで順応していくものです。

例えば季節でいえば、寒ければ自分の方を暖かくし、暑ければ自分の方を涼しくします。その変化は、自分自身を変えていくものであって季節の方を無理に変えることはできません。

この孫子の言葉を、季節と自分に置き換えてみると理解は深まります。人間は自分にしか興味がなくなり、自分のことばかりを考えていると周囲や世界が歪んでいくように思います。視野が狭くなるのは、自分自身の興味を優先し過ぎると周囲の変化が観えなくなっていくものです。

本来、自然を観察してみると周りがどうしたいのかということが感じられてきます。植物であればどう育ちたいのか、昆虫であれば何を食べたいのか、動物であれば何をしようとしているのか、そのものに共感することでそのものがどうしたいのかが聴こえてくるものです。

私の言葉では、その声を聴くものは百戦危うからずということです。つまりは戦いになることはない、百戦しても危なくない、敵なしという境地になるということです。そのものが一体どうしたいのか、そのものが何を思っているのか、それは自分が思い込み決めつける前に、真っさらにして聴いてみる必要があります。

畢竟、どれだけ全体観を持っているか、全体最適を目指しているか、それは周囲に耳を傾けている人かどうか、自分にその余裕を常に持たせているかどうかということにもよります。

敵を敵だと決めつけたり、自分はこういうものだと決めつけたり、起きている出来事を思い込んだり、こういうことがもっとも危ういのかもしれません。

引き続き、敵なしのままに自然体であるがままのことをあるがままに感じる心を育てて子どもたちのためにも観方、聴方を磨いていきたいと思います。

戦いを省く意味

中国の孫武によって書かれたと言われる「孫子」という有名な兵法書があります。特に有名な原文に「戦わずして勝つ」というものがあります。

具体的には「百戦百勝は、善の善なる者に非るなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。」とあります。これは百回戦って、百回勝利を収めたとしても、それは最善の策ではない。実際に戦わずに、敵を屈服させるのが最善の策であるといいます。

戦略とは、文字通り戦いを略すとあります。戦わなくてもいいのならば、戦わないようにするのがもっとも最善な戦略という意味に解釈します。

そもそも自然界には天敵というものがあります。蛇とカエルだったり、フクロウとネズミだったり、他にも作物に対する病害虫、病原菌なども天敵になります。つまりは通常なら敵わない相手があるということです。人間の天敵は誰かといえば、今はほとんど天敵がいなくなっていますからそれは人間自身ということになります。

人間の欲望であったり、人間のごう慢さであったり、人間の持つ自意識など自分に克てるかどうかは数千年の歴史の中で私たちが向き合ってきたものです。戦争が起きるたびに私たちは繰り返し悲惨な体験をしその都度、学び直して人間の中にある天敵と戦わないでいい方法を模索してきたともいえます。

先ほどの孫子でいえば、「三十六計逃げるにしかず」とあり常に天敵だと思えば逃げることが何よりも戦いを省くことになりそれが最上なのだという解釈になります。

これは戦うか逃げるかのことを言っているのではなく、如何に「戦わないか」と常に戦争を避けるかという戦において肝心なことを中庸によって語っているように思います。よく競争や戦争など争う中で生きていると、臆病者と呼ばれたり、勇敢だと叫ばれることもありますが、戦いを省略できいのちを守れるのならそれにこしたことはありません。

しかし先ほどの天敵であっても、子どもを守る親が子どもを守るためにいのちがけで立ち向かうこともまた自然界にはある当然の真理でもあります。大切なものを守るということ、それが大前提にあってはじめて先ほどの「戦わずして勝つ」という道理は成り立つように思います。

常に最善を盡して、子どもたちのお手本になるような生き方と実践を積み重ねていきたいと思います。

四季の廻りと志

また田植えの時期が近づいてきました。毎年、この時期に苗を育て本田に植えますがどのような廻りをいただけるのかと思えばいろいろと感じることがあります。

当たり前すぎて見過ごされることが増えましたが、自然には四季があります。そしてその四季は毎年、一年で繰り返されまた同じように生き物たちは生死を繰り返して古い身体を捨て新しい身体にしていきます。

今まで続いているということは、何度も何度も生死を繰り返し種を蒔きその種を育て続けた志が生き続けているということです。

私が取り組む会社のお仕事も自然農もお漬物も古民家甦生もすべては子ども第一義の理念から派生し実践されているものです。これはご縁を通して自分自身の志を維持することであり、先ほどの四季のように廻り繰り返される中で先人たちの心、その志を継いでいるということです。

周りからはなかなか理解されることもなく、おかしなことをやっている変人とか、多趣味な人と思われていますが私は志を継ぎ、志を遂げるためには同じように守ってきた先人から種を受け継ぎ、その種を蒔き、自分の世代でそれを育てていのちを盡し、また同様にその種を育てようとする次の志の人を待っているだけなのです。

そのうち、一人二人と志を継いでくれる人が顕れ私の今回の四季は何時かは閉じる日が来るのでしょう。たとえその閉じる日が来たとしても、その志を継いでくれる人があるのなら四季の中で先人の志や私の志は永遠に生き続けることになります。

ちゃんと次が顕れるのは自分を観ていればすぐに自明します。志は永遠であり、自分の代を恥ずかしくないように四季の廻りの中で一生懸命にいのちを昇華していくのみです。

四季の廻りの中で野性の生き物たちはみな、四季の廻りを繰り返す中で強くたくましく光り輝いていきます。その生き物たちを見習い、私は私のなすべきことをただ真摯に遣り切るだけです。

引き続き、志を優先し事に当たっていきたいと思います。

触感を磨く

手作業や手仕事のよさは、手で触れ触るとことできるということです。辞書には「触れる」という言葉は「手などをそのものに軽くつける。また、何かが身体にふれて、そのものの存在が感覚的にわかる。また(近づいて)かかわりを持つ。関係する」などと書かれます。主に、感覚的に直観する作用と関係を持つ作用でこの触るという言葉は使われまています。字体は角と虫が一緒になってできた文字ですが、この字を観ると私は虫の触覚のことを思い出します。

今でも自然農の畑にいけば、また古民家の坪庭の手入れをしていたら様々な虫に出会います。その虫たちは触覚を持っているものが多く、少し触れるだけで過敏に触覚を感知させそのものの全体を把握し行動しています。

私たちのように耳や目を使わなくても、彼らは触覚によって私たちが用いるそのほかの五感の役目を担っているのです。

この触覚というのは、触れることで気づけます。さらには触れていなくても気配というものを感じるものです。私も自然や木々、石や古い道具などを手で触っているかかより触感が磨かれある程度は手を翳せばその気配感を手で感じることができます。

不思議ですがこの触覚というのは、生まれてから自分を認識するためにも用いられそして世界を認識するのにもとても大切な役目を果たします。生まれてはおしゃぶりから周辺のものを触ることで赤ちゃんは世界を知ります。そして私たちは様々なものに触れ、関係を築くことでつながりのある自然を認識します。

この触覚を磨くというのは、手作業や手入れをする回数を増やし質を高めるということです。またもっとも磨かれるのは、自然物に触れるということです。森にいけば葉っぱ一枚一枚を触ったり、土に触ったり、木に触ってみたりする。さらには水に触り、火に触り、砂を触り、鉄を触る、どれも独特な感触を私たちに与えます。

その独特な感触を通して私たちは真の個性を知り、そのものの性質や特徴を直観するのです。その感覚は、全ての認識に深くかかわっており、ビジネスマンであれば仕事に活かせるし、職人であればものづくりに活かせます。

改めてこの触覚の重要性に気づいてみたら、子どもたちにも触感を磨くためのものを多く譲っていきたいと思います。それはもちろん外にある自然もありますが、先祖や先人たちの遺してきた智慧というものからも磨けます。

かつての古き善き道具たちに触れることで、触覚をさらに磨き直していきたいと思います。

今を磨く

古民家甦生の御蔭で、リメイクすることや一新すること、革新することの本質を学び直しています。道具や建物も、その時代時代に合わせて変化していきます。かつてのものが今の時代にも合うようにするには常に環境に合わせてどのように活かすかと考えていく必要があります。

もったいないと感じる心は、この用い方、磨き方、そして活かし方にかかっているからです。

例えば、昔の道具を見立てるとき、それを今ならどのように見立てられるかと考えます。また昔の道具を仕立てるとき、今ならどのように仕立てられるかを考えます。さらには、どうやれば今の暮らしの中でそれを活かせるかを考えます。こうしていくうちに修繕する価値、一新し革新していく価値、イノベーションの本質が理解できるようになってくるのです。

もともとよく考えてみればわかりますが、数百年前から地球や自然の本質は変わることはありません。植物や昆虫たちは環境の変化はあっても、人間のように知識を蓄えてそれを独自に発展させていくようなものではありませんから同じことを繰り返していきます。

しかし同じことを繰り返す中で、その環境下に「あるものとないもの」が発生してきます。それを何で代替えするか、それを一つ一つ代替えしていく中に進化が生まれます。私たちもまた同様に代替えというのを行います。これはものに限らず、いのちを含め、必ず死を迎え新陳代謝し肉体もまた代替えをします。生き物は、自然に適応していくためにこのように代替えをすることで、その時代時代に合った革新を行っていくのです。

ここに大切な気づきがあります。

代替えとはリセットするということではないということです。英語でいえばどちらかといえばリメイクするという方がしっくりきます。日本語でいえば改善を続けていくという言い方になるのでしょうか。私の言葉だと甦生です。

決して過去が変化できなくてダメだったのではなく、その過去に向き合い今を改善し新しくし、次の時代に譲っていくということです。これが人間が何よりも大切にしなければならないことのように思います。

日々に新たに、日々に新たなりということでしょう。

時間という刷り込みにもっていかれると、過去とか未来とか困惑しますがこの甦生とは今をよりよく生き切るということではじめて磨かれるように私は思います。

引き続き、今を磨きつつ新たな境地に入っていきたいと思います。

価値観の転換、生き方の転換

人間の価値観というのはなかなか変わらないものです。今までどのような価値観でその人が生きてきたか、それを生き方とも言います。その生き方を転換することで価値観は変わりますが、生き方の転換はそう簡単なことではありません。

長い年月をかけて、同じ価値観でずっと生きてきたらその習慣が身体に沁み付いてしまいます。新しい価値観が習慣になるには、それまでの考え方を新しい習慣によって上書きして刷新していく必要があります。

またこの価値観は、周囲の環境によって知らず知らずに刷り込まれていくものです。もしくははじめて見たものを常識であると信じ込むものです。人間は、本質や本当に何かということを考え抜かないでもほとんどが反射的に動いて問題が起きないように習得していきます。幼いころからの教育や繰り返しの動作によって、考えなくても動けるようになるからです。

しかし何も疑問に思わずに生きていると、自分の見ている世界の方が揺るがなくなり本来の自然の変化の方を自分の価値観で変えてしまおうとするものです。人間社會というのは、誰かの創り上げた価値観に従ってみんなそれに順応して生きています。海外に出ればそれぞれの国の価値観があり、そこに生活する人たちはその価値観であることが当たり前になっているようにです。

今までのやり方や価値観では合わないと気づいたら、人間は自分を変えようとします。その変えようとするとき、新しい場所に行くこともまた変わることでもありますが本来は価値観の転換は生き方の転換だからこそどのような場所であっても自分自身が生き方を換えようと決意しないと変化することはないように私は思います。

今までの自分の価値観ではない新しい価値観に触れ、その価値観の方が素晴らしいと実感し素直にそうありたいと願うのなら自分の生き方の転換のための努力や精進が必要になります。

生き方を換えるというのは、それまでの自分の癖を捨てていくことです。癖に負けてしまえばまた同じことを繰り返してしまいます。自分の癖を見抜いてそれを修正する、それを自分で内省によってできる人もいれば一緒に歩んでくれるコーチや見守る人によってできる人もいます。

大事なのはまず自分の生き方を換えようと心から決意することが全てのスタートです。

引き続き、子ども第一義の生き方を通してコンサルティングを深めて弘めて同志と共に道を歩み続けていきたいと思います。