自分を知る

若い頃、自分に自信がなくて他人にどうやったら認められるかばかりを考えていた時期があります。変なことをわざとやったり、無理に目立とうとしたり、普通しないようなことをしては周囲の気を引いて自分は特別なんだと言い張っていました。

強がってみせて周囲に啖呵を切ってみても、一人になるとやってしまったと反省するばかりでその都度、臆病な自分を奮い立たせなんとか前に進んでこれたことばかりでした。おかしなプライドが削れていく日々は思い返せばそのどれもが味わい深い懐かしい思い出です。

人間が成長するというのは、悔しい思いをしたり情けない思いをしたり、時折涙したり、時折励まされたり、そうやって今の自分を受け容れてその体験をバネに自分を育てていきました。

自分を嫌いになったり、自分を好きになったり、その全てが愛おしくなってきて本当の自分に出会えるような気がします。自分らしく生きるというのは、成功も失敗も受け入れてすべての自分を丸ごとそれが自分であると受け止めることができて今の自分に出会い続けるように思います。

そうやって自分を受け容れることができたらこう思うのです。自分ばかりに執着して自己嫌悪や自己否定などをやる前に、こんな自分でも見放さずに支えてくださっている家族、そして仲間、友人、幼馴染、また過去の恩人たち、これから現れる未来の縁者のみなさま、そういう方々が今の私を常に見守り応援してくださっています。

今の自分があるのは、一体誰の御蔭様か。

自分というものを嫌ってばかりいる前に、今の自分が今まで何で形成されてきたかをよくよく省み自覚し、こういう自分のことを真心から大切にしてくださって愛してくださって助けてくださり慈しみ見守ってくださる周囲そのものが「自分」であることに気づくことです。

自分が分からないと悩む前に、自分探しをする前に、今の自分とは本当は何か、自分だけの目線で自分で見るのではなく、今の自分があるのは一体何様の御蔭様かと振り返ることで今の自分を真に愛せるのではないかと私は思います。

実際の現実の世界でも、自分を中心に世界がまわるのではなく、地球がまわっている中に自分があるという真実。地球の周りを太陽がまわっているのではなく、太陽の周りを地球がまわっているという真実。

自分ばかりを優先する前に、視野をひろげ自分というものを周りの御蔭様から成り立っていることを認めることが本当の自分に近づける方法かもしれません。

自分というものを大事にしてくださっている方々のために自分も同様に周囲に貢献したいというのが自然の姿のように思います。自分とは如何に大きな存在であるか、全体の中の自分があることが如何に偉大であるか、それは真心や思いやりで生きるときに感じられるように思います。

自分を盡して他力を引き出すのは、他力によって活かされているのが自分であることを忘れないという実践です。

引き続き、自分というものを受け容れて価値観を転換し、御蔭様の有難さの中に自分を見出してその境地を高めていきたいと思います。

道は続く、歩み続ける

人生には出会いと別れがあります。そして道があります。道は続いていくものだから私たちは道を歩み続けます。道中に仲間ができて一緒に歩めますが、その仲間とずっと一緒に居られるとは限りません。一緒に居られるご縁というのは有難く、それは同じ道を歩み続けられるという奇跡の邂逅です。

私たちの会社の初心伝承ブックのはじめには論語の一文が入っています。

『子日わく、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。』

これは意訳ですが、孔子は言った「共に同じ道理を学ぶことはできても、共にその同じ道理を実践することは簡単にできるものではない。そして共に同じ道理を実践することができても、同じ認識に立つことは更に困難なことである。そしてたとえ認識を共有することはできても、同じ境地で運命を共にすることのできる人物は、滅多に得られるものではない」と。

私も理念を定め初心を歩んでいく中で、多くの出会いと別れがありました。道を歩むというのは、道の中にある本質や理念を深めて自分のものにしていくということでもあります。しかし実践といっても道理のままに実践できる日もあればできない日もあり、日々に実践を継続する中で実践を省みていくなかではじめて習慣となり心身に染み付いてきます。

さらに道理を実践していたとしても、分かった気になっているだけで同じ認識を持てるようになる人はかなり少なく、共に話しをしていても同じ認識で話せる人はなかなか現れません。それは実践からどれだけ本質や道理を掴んだか、それを捉え続けられるかといった本気の覚悟や決心、自己研鑽と自修錬磨が深くかかわっているからです。

そしてたとえ認識が同じ深さまで来たとしても、その境地を会得したままで人生丸ごと運命を共にでき天命に任せるままに一心同体になれる人はほぼいないということです。

私にはまだまだ自分や情が強くあり、どうしても出会い別れが慣れません。本来は道は続いていくものだから、歩み続けるだけで歩まないものを連れてはいけませんし、別の道を往くものを引き留めることもできません。

しかし思えばご縁というものは、一つの道を歩む中でどこまで道中をその人物と一緒に歩めるかということが道の途中でもあります。人生にはどこに往くのかと誰と往くのかもあります。私はどうしても誰と往くのかの方が興味があるようです。そして誰の人生にも必ず死があり、甦生し、また身体を入れ替えて引き続き道を歩める日が来るまで何度も何度も繰り返し出会い別れと共に歩み続けているともいえます。

そう考えてみると道中の複雑な想いや感情の中でも一緒に歩むことができる同志や仲間の存在が如何に奇跡であるか、そうやって道を共有できることが如何に仕合せであるかを実感するのです。

道縁はやはり無窮なのです。

最後に人生の醍醐味は、決して欲望や願望が満たされるときや結果の報酬や他人から認められることで得られないように思います。辛酸を舐め、諦めずに遣り切ったとき自分に誇りと自信を持ちその時々の道中の思い出が深い味わいを与えてくれるように思います。

いつの日か、ある境地を体得してまた出会える日を楽しみに待ちたいものです。その日に向かって私自身、決してご縁に恥じないような道を歩み続けたいと思います。

ありがとうございました。

 

変化する意味

時代の価値観というものは、時の流れに合わせて変化していくものです。例えば、縄文時代の土偶などで表現される美人と江戸時代の浮世絵にかかれる美人、また明治大正のころの美人と現代ではその美の定義もまったく異なっています。同じ土地であったとしても、時代と共に価値観も変化し人間の意識も変化するのでその美人の定義も変わっていきます。

歳を経ていくと感じることですが、自分は変わっていないままでも周りは変化していますから自分を変えていくか、周りが変わらないようにと保持していくか、人間は生き方を選択しているとも言えます。

自分を変えていくというのは、自分の価値観のズレに気づきそれを自ら受け容れて素直に改善していくということです。それは日々を真面目に頑張ることではなく、日々の体験を深く味わい心を優先して楽しんでいくことでできるように思います。

変化とは何かを大きく変えることを変化と思っている人がいますが、実際の変化は自然の緩やかで大きなもののようにじっくりとゆったりと動いていくものです。目に見えてわかりやすい変化は、急なスピードで下っていく滑り台やジェットコースターのような面白さもありますが、本当の変化は変化していることにすら気づかないような自然の壮大な変化のように目には見えにくいものです。

だからこそ日々の実践を大切にし、毎日の小さくて微細な変化を捉えては内省をし少しずつ変化成長させ続けていくことで自然と同様に自分を変化させていくことができます。

自然を感じる心、自然を味わう心、自然と共に暮らしていく中で私たちの先祖は変化し続ける智慧を維持してきました。自然と一体になり共生する仕組みは、自分自身の心をいつまでも純粋に保ち、心の穢れを洗い清め、常に初心で新しいままで居続け変化そのものになり已まない生き方だったのでしょう。

心を失い、心を亡くし、心を優先せず、頭ばかりを働かせていたら変化することの意味もまた変わってしまいます。本当の変化に順応していくためにも、常に心を優先して実践と内省を味わう日々を丹精を籠めて一期一会に歩んでいきたいものです。

二度とない一日、二度とない人生、二度とない出会いの日々だからこそ流さず流されず心のままに味わい尽くしていきたいと思います。

歴史伝承の仕組み~神楽~

昨日、郷里の撃鼓神社の春大祭で撃鼓神楽を拝見する機会がありました。この撃鼓神社は聴福庵のある飯塚市幸袋の総鎮守であり、天太玉尊、天児屋根命、細女命の三柱の祭神とし天の岩戸の前で占ったり祝詞をあげたり踊ったりしていた神々が祀られています。

神楽も多数の演目があり、それを宮司をはじめ氏子の方々で伝承されておられました。古い伝えによると、上宮は白旗山中腹にあり下宮が山裾にあって、古くは上宮を鼓打権現、下宮を笛吹権現とよんでいたそうです。この両権現は神功皇后が三韓出兵の際の神楽奉納で、囃子の太鼓、笛を指導した神様だとも言います。

神楽は笛と太鼓の独特なリズムの中で、神職の衣装を着た方々が舞いを奉納していきます。その舞の姿や祝詞も、古代から確かな意味があり継承されているもので感覚的に魂に訴えかけてくるものもあります。

その地域の人々がこの風土で何が起きてきたか、そしてこの風土の中にどのような歴史があったのか、それを唄と踊りによって継承しているものです。どんなに石に文字を刻んでも1000年も持たずに風化してしまうというのに、この神楽は毎年続けることで1000年以上の年月を継承していきます。ここに風化させない仕組みを感じて、先祖の偉大な智慧を実感します。

今では文字が発達し、情報社会ですからデータで保存するのが当たり前です。しかしどんなに優れたハードディスクや紙があってもその情報をそのままに伝承することはできません。時代と共に文字も変われば言葉も変わり、そして価値観も人間も変わるからです。

しかしこの神楽の伝承は、そういうものが変わっても変わらずにその意味の解釈や伝統の継承が行われていきます。歴史を絶やさないという強い意思がここから感じられ、先祖代々が何を大切にしてきたか、何を誇りにしてきたかを感じて魂が揺さぶられます。

民俗の歴史や地域、その担い手により紡がれてきた伝承は洗練された芸能を産みます。日本古来からの固有の文化に触れるのは、親祖の生き方、考え方を学ぶことです。

伝統芸能を通してどのようなはじまりで今の私たちがあるのか、今の私たちまでつながっている文化はどのような発展を遂げてきたのか、その歴史に向き合うことができます。言葉をほとんど用いずに、洗練された踊りや音楽によって理解する伝統の片鱗に触れた気がします。

引き続き、芸能の本質を深めて子どもたちに伝道していきたいと思います。

 

 

日本人の精神が宿るもの

昨日は聴福庵の内装に用いる和紙をつくる伝統職人井上賢治さんの工房にお伺いしてきました。この方は福岡県秋月で130年以上続く老舗和紙製造の4代目になられます。かつては20軒以上あった和紙処も今では井上さんの和紙処のみになったそうです。

井上さんは幼いころから祖父や父の後ろ姿から和紙作りを学び、一時は若い時は家を飛び出して他の仕事に就いてから戻ってこられたそうです。外に出ても結局は紙に関わるお仕事をされていたそうですが父の背中を見て家業を継ぐ覚悟を決めたというお話もいただきました。

手漉きの和紙の工程を丁寧に案内してくださり、私自身も手漉きで和紙を製作する体験をしてきました。

手漉きの和紙をつくる工程をすべて体験して気づいたのですが、大変な工程を手間暇かけてつくられます。やっている最中は何か生きているものを育てるような感覚で一つ一つの工程をまるでお漬物を育てるように手塩にかけて大切に接しています。手漉きの工程では、ひいてはまたおしよせる波のように水を行き来させ美しい砂浜のような紙を漉いていきます。

最初は大変な作業だとしか感じられなかったことも、竹の簾を用い手で丁寧に漉いていく体験をすると心が清く磨かれ、また暖かく豊かな心が醸成されていく気がします。この日本の伝統の和紙には、いのちを扱い、いのちを伸ばそうとする、自然を尊敬して自然を活かし切るという日本人の精神が息づいているように感じました。

伝統的な日本の和紙は、世界一長持ちする紙と言われ奈良の正倉院には1260年前に作られた和紙が当時と変わらず残っているといいます。和紙は木の繊維を残したまま、それを絡み合わせて作るため丈夫さがあり自然素材だけを使うので化学薬品で無理にくっつける必要もなく1000年以上たっても劣化しない。つまり1000年持つというのは、そのものが1000年生き続けるということであり、楮が1000年のいのちのある存在に転換されるといっても過言ではありません。

古民家甦生を通して、最低でも100年、通常なら1000年単位で物事を観るということを感じることが増えてきました。そして家が1000年続くのなら、その暮らしの道具たちもまた1000年の風雪に耐えるものである必要があります。

私たちの先祖は、常に1000年先を見通して1000年生きるものをつくってきたのかもしれません。あっという間に簡単に捨ててゴミになるような安易な工程は何一つ伝統のものづくりの佇まいの中にはありません。

井上さんは「紙漉きとはできあがるまで育てる、人生そのもの」だと仰います。

もう一度、かつての日本人の精神を宿したものを感じて自分たちの民族の誇りや自信を取り戻していきたいと祈るばかりです。子どもたちに譲れるもの、譲るものを間違わず自分の生き方、人生そのものから見直していきたいと思います。

 

信仰の甦生

世界に存在する民族にはそれぞれに歴史があります。そして同時に、その民族が経験によって積み上げてきた叡智があります。その叡智は、時には宗教として現れ、時には生活文化として現れ、また時には産業として現れます。そのどれもがその土地の風土とは切っても切り離すことはできないものです。

例えば、私たち日本人は自然を崇拝して多様な自然の変化と共に暮らしてきた先祖たちの叡智があります。稲作を中心に祭りや神事が行われ、稲作から得た叡智をその後の暮らしに溶け込ませています。

お米を作ることがなくなってきた現在、自然の中でお米を育てていくための様々な考え方や智慧も伝承されにくくなってきています。さらには機械や農薬を用いて、単独で大量生産できるようになってから本来の稲作で積み重ねた叡智もまた伝承されにくくなってきています。

神社の御祭りには、春には豊作を祈り、夏には風雨の害がないことを祈り、秋には収穫を祈り、冬にも祭祀を行うものがあります。一年を通して稲作と共に暮らし、その中でお祭りがあったことは明白です。

さらにはそれぞれの家で様々な場面で祈祷が行われました。それもまたお祭りであり、このお祭りとは決して大きなイベント的なものを言うのではなく、連綿と先祖から続く信仰のカタチのことです。

信仰は暮らしから出てくるもので、暮らしが消えれば信仰は消えます。私は民家甦生を通して如何にこの暮らしの甦生が信仰の甦生になるのかを肌で感じました。地域の信仰の甦生、神社再生のことなどもご縁があって関わることになりましたが結局はこの暮らしを追求すれば必ずこの信仰に辿り着くのです。

信仰とは、私たち先祖が暮らしを通して実践してきた叡智のことです。この叡智を途絶えさせないように、また復古創新していつまでも新しい息吹を持続できるようにその時代時代の責任を担う人たちが真摯にこの伝承を実践していく必要を感じます。

暮らしから出てきたこの信仰の甦生と向き合い、分けずに取り組んでいきたいと思います。

生き方の改善

昨日、一年間一緒に関わってきた高校のクラスで一円対話を見学してきました。一年間をかけてじっくりと協働や協力、そして生き方を学び合い成長した様子に嬉しく有難い気持ちになりました。

そもそもアクティブラーニングという学びにおいても、それは学び方とかやり方とかの方を語られますが実際はその生き方が変わらなければそれはただの方法論の一つになってしまうものです。

見た目をそれっぽく繕っても、そもそもの根底にあるものを根本的に転換しなければ変わったとは言えません。その変化とは、それまでの自分の思い込みや考え方、価値観に影響を及ぼす生き方の転換を意味するのです。

生き方の転換ができてはじめて方法論は活きてきます。能動的学びや主体性などというものは「生き方」の方が変わっているからできるのであって生き方が変わっていないければそれは表面的だけの変化であって真底から変わったわけではないからです。

この生き方の転換とは、何度も何度も素直にその本質や根本から気づき反省し学び直す中で培われていくものです。この一円対話を通して、お互いから学び直し、お互いを磨き直す中で今での知識をすべて忘れ去って新しい智慧が入ってくるのです。

人間は知識を持つことで様々な固定概念を持つようになります。それを思い込みや刷り込みと私は呼びます。そういうものを削り取って真っさらにしていく、それを磨き直してゼロにしていく、そういう学びがあってこそ初めて人は価値観の転換ができ、生き方の改善ができ、まさに心の持ち方を学ぶように思うのです。

心の持ち方や考え方を換えることは、生き方を学び直すことです。

引き続き、私たちが弘める一円観、一円対話、聴福人を通して自分らしく生きられ、生き方を改善し、楽しく活き活きと協力して味わえる学びのよろこび、そして道をつなげていきたいと思います。

 

変化の源泉

物の観方というのは、変化するためには大切であるように思います。事実に対しての観方は人それぞれで異なりますが、そのどちらも有難いと感じる人は物事の見方を転じて自分の方を変化させようとします。

反対に、物事の見方が自分の思い込みからこうするのは当たり前だというように正解や自分を正当化した物の見方をする人は周りを変化させようとします。

同じ変化といっても、自分の物の見方を柔軟に変えていくという意味での変化と、見方は変えずに自分の状況の方を変えるという変化があります。言い換えれば、心の変化と環境の変化といってもいいかもしれません。

環境が変わることで心が変化することもあります。しかし、天候が毎日変わるように日々は毎日変化していきます。その中で自分の思い通りにならないこと、思った通りになっていくこと、日々の変化は続きます。自分の願望や欲望が強ければ強いほどに、自分の思い通りではなかったこと、自分の思った通りになったことに一喜一憂していては疲れてしまいます。

以前、取引先の経営者の方から「雨が降ったらアーメン、晴れればハレルヤ」という言葉を聴いたことがあります。すべてのことは神の御心のままにという意味ですから、あらゆることを感謝で受け取るということが大切ですと教えられました。

あらゆることを不平不満ではなく、感謝で受け取れる人間になっていこうというお話でしたがこれこそ変化の源泉であると私は思います。変わらない人と変わる人、その差は一体どこあるのか。それは物事の受け止め方、物事の見方が感謝が土台になっているか、それとも不満が土台になっているかのように思えます。

満たされない人はいつまでも外的変化を望みます。反対に満たされている人は、自分の心の方の変化を望みます。前者は常に不安が原動力になり、後者は安心が原動力になっているようにも思います。どちらも原動力が働くという意味ではいいのですが、大前提にすべてを感謝で受け取ることができるかどうかがその人の豊かさや幸せと関係するように思えます。

心の持ち方を教えるというのは、万物の教えを活かす方法を身に着けてもらうということです。宗教かどうかではなく、生き方を学ぶということでしょう。どのような生き方をするかは、その人の物事の見方がどうかということを聴けば自明するように思います。

引き続き、全てを転じて福にする聴福人を精進していきたいと思います。

心の持ち方

人間は心の持ち方ひとつで生き方が異なるものです。例えば、どんなに豪邸に住みどんなに大金持ちになり世間がうらやむような生活を送っていたとしても心が満たされなければそれは果たして富んでいるのかわかりません。反対に、どんなに貧しくても心が満たせている人はとても豊かに幸せに満たされて暮らしていることもあります。

そう考えてみるとやっぱりないものを数えるよりもあるものを数える人、足るを知る人は心豊かです。過去をひきずり、ないものねだりをし欲ばかりを増やしていたら大切な今を見失います。今に生きるということは、まずその心の持ち方を転換する必要があります。

もちろん人間には純粋だからこそ過去に傷つきそれがいつまでも心のトラウマとして傷跡が残ることがあります。その過去が未来を恐れ、きっとまた同じことが起きるのではないかと不安になります。その過去に縛られれば、今に反発したり今を受け容れることができないことも出てくるでしょう。

しかし、今ここにある幸せに目を向けて観れば心は次第に育ってきて心が癒されていくものです。結局は過去という名で心を縛り付けて心を閉ざしてしまうと、今この瞬間を心が味わうことを諦めてしまうのです。

心の持ち方というのは何か、それはどんな状況や環境であってもないものを欲しがるのではなく、あるものを感じる心を持てるということ。心はあるものしか感じないようにできているからです。そして言い換えれば心のままに生きるというのは、満足よりも充実に生きるということ。もしくは願望よりも感謝で生きるということに他ならないようにも思います。人間は心を持っているのだからもっと心の方を優先して生きていこう、それが心の持ち方のことなのです。

だからこそ人はみんな今の環境を嘆くよりも、心の持ち方を学ぶことでどんな環境下にあっても心豊かに幸せに生きられるということなのでしょう。

どのように物事の観方を転じるかは、その物事の価値をあるがままにありのままに受け容れることからはじまります。天が自分に与えられた一切のものは、必然でありそれはもっとも必要なものだけであったという覚悟。また欲望ではなく、心や魂が本当に求めている道はこの足元にすべて訪れてくるという覚悟。

今を受け容れることは、足るを知る感謝の心を持つということでしょう。

どんな今も「これがいいのだ」や「これでいいのだ」と丸ごと受け容れ物事の観方を自分中心ではなく御蔭様中心に転換する発想を持てるようにいつも人の話を素直に聴ける精進の場と実践の訓練を一円対話を通して伝道していきたいと思います。

 

自分の心に寄り添う訓練

よく相談を受けるものに「自分のことがわからない」というものがあります。自分探しなどもそうですが、何が自分であるのかを探しているうちにより一層自分のことが分からなくなるという状態のことをいいます。

本当の自分の声を受け入れず、そして自分のことを丸ごと認めることもなく、こうでなければならないとか、こうあるべきだとか自分のことを否定しているところが素直になれない理由のように思います。

実際には外側から見た自分のことを自分だと思い込み、内側から出てくる自分を抑え込んでしまえば自分と調和できずに自分が分からなくなってしまうのです。

少し深く考えてみたら、人は感謝の心を忘れたときに自分が分からなくなるように思います。無理やり外側から有難いと思わなければならないと言い聞かせてもそれは決して感謝ではありません。自然に内側からにじみ出てくるように勿体なく有難いと感謝の気持ちが湧いてくるとき本当の自分に出会うように思います。

自分がどう思っているかばかりに関心を持ち、自分のことばかりを考えてしまえばしまうほどに自分はきっと正しいと思い込むようになります。自分を絶対視し、それを貫くことが自分だと思うのは自分に正直なのではありません。

自分に正直というのは、素直になること、感謝すること、それを外側から素直であろうとか感謝であろうとか思うことではなく、自然に心が素直になること、自然に心が感謝になることのように思います。

言い聞かせようとするのは、自然の状態ではありません。心が自然に感じるままに今の自分の心を認め、受け容れることで本当の自分に出会えます。いくら感情の自分が出てきて感情をコントロールしようとするもう一つの感情が出てきたとしても、それは決して本当の自分ではありません。そこで自暴自棄になりそうなその時こそ、芯の強さ、心の強さが必要になります。つまり日ごろの心との対話、内省が重要になってきます。

経験をしている大事な場面、その時々の自分の心は本当はどう思っているのか、自分の心は何を感じているのかと、自分自身を深く見つめて心に耳を傾けてみてはじめて自分を知るのです。それを怠れば感情に流される日々を送り日々は忙しく過ぎ去っていくのです。

自分探しをはじめるのは心ではなく感情に呑まれるからです。正直さとは感情の掛け合いの中にはなく、自分の心は本当はどう感じたのかと自己との素直な対話ができるとき自分に正直になったと言えるように私は思います。

理想の自分になることが幸せだと思う考え方を手放してみれば、今の幸せに気づけるものです。自分の今の幸せに感謝する心が自分を誤魔化さないでいられる方法になります。内側から出てくる素直な声はすべて感謝と紐づいているからです。私たちはつながりの中で幸せを感じ、その時に本当の自分に出会うからです。

心に嘘をつかないというのは、自分の心を丸ごと認めるということです。

子どもの心を守ることは、本心を内省によって磨くことです。引き続き、自分の心に寄り添う訓練を積み重ねていきたいと思います。