古い道具に触れていると、道具の持つ魅力を感じます。それはそのものが活かされてきた歴史と向き合うからかもしれません。色々な使い方をされてきて飴色に輝く道具には使い込まれてきた風格が備わっています。
先日、江戸時代に創作された竹の香筒にご縁をいただきました。もう数百年も経っていますが、今でもそれは活き活きと古びれることがなくしっかりとして見事ないのちを保っています。
本来、竹をそのままにしておけば数年で朽ちてしまうものです。しかしこの竹は数百年の歴史を生き、人づてに多くの御主人を経て今に生き残っています。その竹筒には確かな風格が備わっており、それを使う人を凛とさせるものがあります。
道具は、自分の意思がありません。それを使う人がどのように用いるか、それを謙虚に受け容れその器であることに徹しています。もしも器が自分の意思で入れるものを拒んでしまえばその器はそのことでしか使われることはありません。使い手がどのようにそれを使いたいか、どんなものにでも順応し対応するのはそこには無の境地が必要になります。
使い手が好むように使われていくという心は、自分のいのちを天命に委ねて生きていくのに似ています。
以前、マザーテレサが自分は神様の鉛筆であるという言い方をしたことを知ったことがあります。絵描きの描き手にあわせて鉛筆は動くだけ、鉛筆が勝手に動くわけではないという道理を語りました。相手が思っているように動くというのは、決して受け身になるのではなく素直になることです。
それは素直に天命の赴くままに器としての自分を活かし切っていくということ。言い換えるのならば、用いてが使いやすいように自分が変わっていくということ。そこには自我欲や自分勝手であることを良しとせず、真心で自分を世の中のため自然のためにと活かしていこうとするいのちの本流を感じます。
そのうち器は必ず、自我が削れてきて素晴らしい主人と巡り会うこともあります。またそれまでの経過には色々なご縁や出会いがあり、その一つ一つの傷跡がそのもののいのちを永くしていきます。器としての寿命が永いというのは、それだけいのちを活かし切ってきた、お役に立ってきたという証なのです。
古道具を用いることで生き方を見つめます。
引き続き、代々の主人が大切にしてきたように私も私なりの真心で接し、尊敬する古道具たちから生き方を学び直していきたいと思います。