天道地理義理人情の法理

朝起きて鉄瓶に水を入れて炭を熾してお湯を沸かします。この時、私は火を熾すために火吹き竹で息を吹きかけていますが火は自然の力によって燃焼していきます。次に、私は鉄瓶を用意して水を入れて火鉢に置きますがそれをお湯にするのは自然の力です。さらに、そのお湯を湯呑に入れ茶葉をとおしてお茶にして呑むのは私ですがそれを体に吸収していくのは自然です。

人と自然。

私たちは自然に寄り添い、自然の力を借りて日常生活を続けることができます。空気を吸うのは自分ですが、空気は自然の力で存在します。水を飲むのは自分ですが、水は自然の力で存在します。太陽を浴びるのも自分ですが、太陽は自然の力です。そう考えるとすべては自然の力を借りなければできないものばかりで、そこに自分が何をするかを決めて行動することで自然の力をお借りしているということになります。

このように私たちは様々な自然のお陰様やお力をお借りして、そこに人として働きかけることで自然と共に生きています。この当たり前の事実をどれだけ感じて生きているか、そこに人道と天道、人と自然の道理の理解があります。

自然とつく仕組みはここ数年、あれこれと発酵やら養鶏やら農やら最近では古民家甦生で学び直してきましたが畢竟、そのどの仕組みも自然の恩恵を引き出すために自分が人として何をやるかということに尽きるように思います。

これは仕事でも同じで、自分がやっているのは人としてのところ。あとはどれだけ自然の力が借りれるように真心を尽くしていくかということになります。真心や感謝は人の道であり、それを実践することで自然のお力をお借りすることができます。有難いと謙虚に正直に誠実に信じて取り組む人は、人として理に叶ったことをやっていることになります。そういう人はいつも自然のお力をお借りして事を成就させていくように思います。

先ほどの火鉢で火を熾すことと同じく、何回も修練を積んでいくことでその息の吹きかけ方や丹誠が磨かれていくように思います。仕事も同じく、人としての道を何回も修練を積んでいくことでその実力が磨かれていくように思います。

人間は自然の仕組みを離れて人間の力だけで火も熾し水を操作し、光を作れると錯覚していますがそんなものは妄想で火も水も光も何一つ人間だけでは作れません。すべて自然の力を借りていて、その自然の力が偉大なのであって人間が偉大ということはないということでしょう。

自然の力をどうお借りするか、それは天道を究めていくことですが同時に人道も究めていくことです。この天道地理義理人情の法理に叶うかどうか、それは日々の内省と改善によって磨いていくしかありません。しかしまだまだ私は思いやりを優先でき徳を発揮するまでには至らず反省ばかりです。自然のような誠、その誠を引き出せる人物に近づけるようになりたいと祈る日々です。

引き続き、自然の摂理を学び直しながら自然のお力をお借りできるように感性を磨き、人として何を実践していくかを真摯に振り返り、子どもたちに大人としてその後姿を見せられるように精進していきたいと思います。

つむぐ心

「つむぐ」という単語があります。これはあるものとあるものを「つなげる」ときに使われる言葉です。本来は辞書には、「綿や繭から繊維を引き出し、より合わせて糸にすること」とあります。

そのことから、「思いを紡ぐ」という言葉もあります。糸のようにより合わせて同じように思いもまたより合わせていくという意味です。

長い年月をかけてつむぐことで様々な想念は実現していくという比喩なのでしょう。人間も一生がありますからその一生の中でできることは僅かです。しかし、その思いを紡いでいけばいつの日かそれが一本の糸になり、それが紡ぎ合わされ最終的な美しい反物になり私たちを纏う衣になったり、もしくは包むこむような布になります。

ドイツの詩人ゲーテに、「蚕は糸を紡ぐにつれ、だんだん死に近づいてゆくが、それでも糸を紡がずにはいられないのだ。」とありますがこの心境もまた「つむぐ」ことをいのちの糧にして生きるものたちの姿なのかもしれません。

紡いだ糸が何重にも織り合わさって様々な形を生み出していく、そこにはモノづくりの美しい姿があります。私たちは日々に生きていきますが、一つの理念を形作るために日々につむぎ、そのつむいだもので今の姿が顕現しているともいえます。

そういう日々であることを自覚するのなら、毎日はかけがえのない日々をつむいでいる美しい日々に変わります。

どうしても忙しくなると、日々を紡いでいくという意識ではなくなるものです。そういう時は、自分が一本の糸を織りなしていく姿を想像したり、多くの情報の中から大切な一本の糸をつむいでいることを忘れないようにしたいものです。

いのちが尽きてもそれでも糸をつむぎ続ける蚕のように、自分の役割やお役目に生きる生涯をつむげることは幸せなことなのかもしれません。自分の遺したものが、子孫の力になるというものもまたこの紡ぐ姿から感じることができます。

子どもの仕事というのは、この「つむぐ心」を育てていくことかもしれません。引き続き、日々の実践を確かにしつつ思いをつむいでいきたいと思います。

進化の一因

昨日のニュースで盤上ゲームの中で最も戦略的とされる囲碁を打つために開発されたGoogleの人工知能Alpha Goのことが紹介されていました。

中国で世界最高レベルの打ち手をことごとく破って最後は世界トップランクの天才棋士柯潔を完璧に破り人工知能Alpha Goは正式に囲碁から引退するという報道でした。

ボードゲームの中でもっとも複雑だとされる中国4000年の歴史がある囲碁にチャレンジすることで人工知能Alpha Goは「人間を超えるために10年かかる」と言われていたものをここ1年、2年で追いついてきたことになります。

この人工知能Alpha Goを開発したロンドンの会社DeepMindの理念は「人間の知性を解明する」ことであり、囲碁で得たこの技術をさらに発展させ応用し他分野に進出していくということです。

印象的だったのは試合後の記者会見で天才棋士柯潔が「AlphaGoは世界を変えてしまったが、ぼくはぼく自身でありたい。そして囲碁が楽しいことを伝えたい。その責任がある」と語っていたことと、「AlphaGoの打ち手は、まるで人間のようだった」という言葉です。

ここから相手のことを読み、学びそして判断していく技術、さらにそれを裏付ける知能、もうすでに知能技術はほとんど人間に近づき人間を凌駕したことに気づきます。100年前なら想像すらできないことを今はほとんど実現可能なところに来ています。

人類はこの人工知能、つまりは知識の技術においてついにほとんど完璧に近づいた存在を目にすることになったともいえます。そしてその時、私たちはどうするかということも同時に向き合う必要が出てきます。

かつては人間の作りだしたものが人間を超えるはずがないという先入観もあったかもしれません。しかし実際は、人間の作り出したものが人間の手を離れ人間を大きく超えていく時代に入ってきたのです。

それぞれに意思を持つ人工知能は、私たちが努力して必死に技術を磨いていてもそれをあっという間に獲得して私たち以上の完璧なものに仕上げていきます。どう考えても人間が作ったものよりも良いと判断されたら私たちはその時、どのような世界を生きていくのでしょうか。

私にとってはこの対局や人工知能の存在が、改めて文化と文明について人類に本質を迫ってくるように思います。私の場合は楽観的に考えますから改めて人類の文化の価値が見直されるのではないかと思っています。

人々が長い年月で得たもの、囲碁であれば4000年の歴史は勝ち負けとは離れたところに生き続けているものです。人類とは何か、それは歴史です。いくら技術が進んで人間をすべてにおいて凌駕したにせよ、進歩は進化を超えることはないように思います。

なぜならその進歩もまた進化の一因でしかないからです。

だからこそ大切なのは、一人ひとりが今を大切に進化を已めずに成長を続けていくということです。引き続き大切なものを守りながら変えていくものは変えていく、その世代の責任と使命を感じながら命を尽くし温故知新を進めていきたいと思います。

 

自律と自由と自分次第

昨日、自由の森学園の体育祭を見学する機会がありました。子どもたちがのびのびと自由に自分たちの体育祭を楽しんでいる様子にほのぼのとした雰囲気がありました。いろいろなことを外から強制せずに自分たちで物事を主体的に取り組むようになるには、自分自身と向き合う必要が出てきます。

自分自身と向き合う中で、どのようなルールを自らで設定するか。ここに自律を学ぶ意味があるように思います。

私の会社も自由にしていますが、その自由の意味が最初はわからず周りから与えられたルールに従ってきた人たちは困惑して最初は何もできなくなるものです。しかし周りを見渡して、誰かから与えられたルールではなく自分自身が決めたルールに従うことで得られる自由に気づきます。

それでも与えられた自由のことが忘れられず、誰かに決めてもらおうとしたり、責任者に自分の管理を押し付けたり、会社のせいにしたりトップのせいにしたり、もしくは権利ばかりを主張してきたりするものです。

本来、自由というのは自分で決められる自由です。それを最初からできないものだと決めつけて自分で決めようとはせず、誰かによって決められたものでそれは決して自分では決めてはいけないものだと考えるほど不自由なことはありません。

無理をして限界がくれば会社を辞めればいいと努力している人もいますが、こんなのは誰かの決めたルールに従って無理に働いているだけで自分から成長を楽しんで働いているのではありません。

自分で決める自由というのは、誰かがそれを決めていたとしても自分が納得していればそれは自由です。それが主体性を発揮しているともいえます。例えば、私も疲れた時や大変な苦労の時に、なぜこんなことをと思う時もありますがよく考えてみると自分で選んだ道ではないかと思い直せばその柵から自由になり前向きに明るく取り組むことができています。

これも先ほどの自律と自由の話の一つで、自分が決めたことを自分でやりきることほどの自由はなく、誰かにやらされて仕方なくやる不自由とは異なるものです。自分で選択したことに責任を持つというのは、決してつらいことではなく、よく覚悟を決めることは大変なことだと勘違いされていますが本来の覚悟を決めることは自由になることを意味するのです。

自由というのは、自分の人生に自分が責任を持つということです。決して誰かのせいにするのではなく、すべての人生は自分が主体的に創造する主人公であるのだとこの自分が創造する世界の全責任を自分が持つということです。

物事をどのように感じるのかもその人次第ですし、出来事や機会に対してどのように接するかもその人次第、時間の使い方も人生の使い道もまたその人次第。どんな境遇にあったとしても、それをどう活かすかはすべてその人の責任、その人の自由なのです。

そうしてみると、子どもたちがこの自分で決める自由を学び社會に出ていくというのはとても大切なことのように思います。不自由の中で一生を終える人と、不自由は自分自身が決めているのだと悟り、自分が主体的に世界の責任を持つと決めて自分ルールを持ち自由に生きていくのではその社會の未来も変わっていきます。

引き続き、子どもたちの可能性を感じつつも子どもの憧れる会社を目指しているのだから社會と自分自身と向き合い、どのようなすばらしい社會にしていくかを掘り下げ、世界のモデルケースを研究し、どんどん楽しいルールを会社で創り自律を高め、新しい自由を社業を通して世の中に広めていきたいと思います。

遠心力と求心力

遠心力と求心力というものがあります。これは簡単に言えば外に向かって働いていく力と、内に向かって働いている力のことです。遠心力といえば何かを振り回していれば外側に向かって広がろうとする力であるのは想像できると思います。これは宇宙が膨張していくように、中心から外側に向かって離れていこうとするものと同じく拡大成長していくような力です。

それに対して求心力は、中心に向かって引き寄せていくような働きのことで宇宙の星が引力や重力があって宇宙空間に物質が飛んで離れていかないようにと中心に集めようとする力のことです。その求心力のお陰で、私たちの住む地球もあらゆるものがこの場に存在して安心して暮らしていくことができます。

宇宙というものはこの円運動で行われているもので、この働きは体の内部のことであっても自然現象のあらゆるものであってもその道理が働いています。つまりは根本的な仕組みとして私たちはこの道理を活用して日々の生活を成り立たせているのです。

この道理に照らしてみると、例えば「集まる」と「集める」というものがあります。集めるというのは外側から何とか人為的に集めていこうとする働きのことです。これは膨張の力で広げていく中で集めようとしていきます。しかし「集まる」という働きは、みんなで重力場や引力場を育ててあらゆるものがそこに集まるように中心(核)を創っていくということです。

この核がしっかりあるからこそ、あらゆるものは外には飛び出さず中心に向かって集まっていきます。この集まる力によって重力も引力もあります。その中心に向かってもっとも大事な役割をするのが自然であれば土です。土は核の周りにあってしっかりと地球を守ります。そしてその土に根をはりめぐらせ広がっていくのが樹木でもあります。

この樹木もまた、根という中心があり幹があり葉をつけ種を運ぶからこそ広がっていきます。しかしその根がなければ結局は森はできませんし、森がなければそこに豊かな生態系や暮らしに集まる生き物たちは現れることもありません。

求心力と遠心力は表裏一体であり、そのどちらのバランスが崩れても私たちは中心を維持することができないということです。人間はどんなに知識を持って妄想してもその実自然の中にいますから決して自然の道理に逆らうことはできません。

私のコンサルティングはこの自然の道理に従って物事を捉え、自然の摂理に沿って物事を判断していきます。つまりお手本は自然であるということです。

子どもたちのためにというのであれば、中心から外れてしまうような仕事はしたくないものです。引き続き、様々なことを磨き直しながら理念経営、初心伝承を進めていきたいと思います。

約束の価値

「約束」という言葉があります。これは字を分解すると「約」っていう字は目印をつけるために糸を引き締めて結ぶこと、そして「束」という字は木を集めて紐にひっかけて縛るという意味があります。つまりは、目印をつけてそれを縛るということです。

この約束は他人とするものかといえば、それは相手次第になりますからやはり自分とするものです。自分の心に決めたことを自分の心に結び、それを信念として守り続けて最期までそれをやり遂げる、それが約束を守り約束を果たすということになると思います。

この約束とは、自分の決めた生き方のことです。言い換えるのならば、魂の声に従うということです。人は頭で考えなくても自然に自分のやりたいことに全自動で向かっていくように思います。素直さを磨いていけばいくほどに、本当はそうだったのかとすべてのご縁や導きが一つの天命によって貫かれていることに気付くように思います。

しかし自分の中の固執や我執からそれが観えず、いつまでも自分がわからないままにまわり道を繰り返してしまうものです。そのまわり道を通っているうちにはたと心の目印、約束にめぐり合い自分の道に気づいて感謝するのかもしれません。

人は同じ人は誰一人おらず、お役目や役割も人それぞれで異なります。自分と異なるお役目の人を羨み、妬み、それを欲しがってもそれは自分のお役目ではありません。自分のお役目は自分にしか与えられていませんから、そのお役目を果たすとき約束を果たしたということになります。

自然では、あらゆる生き物たちが存在します。

その生き物のいのちによっては、非業の死を遂げるものもあり、また平穏無事に寿命を全うできるものもあります。同じ草であっても、同じ虫であっても、そのお役目は千差万別あり同じ役目のものは一つとしてありません。

つい人間は自我や自己認識が強くなり、自己中心的になると周りのことがわからなくなり自分のお役目のことなど忘れてしまうのでしょう。そういう時に忘れない工夫こそが、約束の価値であり、理念や初心というものもまたその人のお役目を守り果たしていくための仕組みなのでしょう。

運命をどう生きていくか、その時に大切なのはお役目を忘れないで生きていくことなのかもしれません。

人生の約束を守れる生き方は、素直に謙虚に感謝の心のままに生きていく生き方です。あるがままの自然体で、ありのままの運命を受け入れる柔軟性と好奇心。まるで魂のままの子どものように自分の道を迷いなく清らかに明るく正直に生きていければとても仕合せなことだと思います。

自然が約束しているあの生き方のように、自然に沿って生きていきたいと感じます。子どもたちから学び、子どもたちのようにそのものが持って生まれた天命のままでいるような姿を見習い、子どもの憧れる働き方を求めていきたいと思います。

伸びる感性を持ち続ける

物事にはすべてに調和、バランスがあります。対立したものが調和して物事は一体になっていきます。それは光と闇、火と水のように相反する性質のものがちょうど中間で折り合いをつけてバランスを取りちょうどいい具合に変化していくのに似ています。

この相反する性質のものを活かすには、どちらにも固執しないようなしなやかでやわらかな感性が必要になるように思います。古語にはそのバランスがあるものを中庸ともいいますが、この中庸は頭で理解できるものではなく心魂を磨き徳を備え、万物の調和の感覚を得ている自然と同様な生き方をできる柔軟性を持つ人たちが得ているように思います。

それはなんでも好いことに転じて活かす感性です。物事や事物を消極的に捉えるのではなく、それを楽観的に前向きに明るく捉えて味わい挑戦していく能力とも言えます。

自分のやりたいようにもっていこうとしたり、自分の思っている方へと向けようとしたり、自分を手放さなかったり、自分のできないことを避けようとしたり、自分に固執すればするほどにその柔軟性は失われて頑固になっていきます。

この時の頑固さとは周りが変化しているのに自分だけが変化しないでいようとすること、そして自分が変化しなければならないのにいつまでも周りにばかり求めようとすることです。

この頑固さを手放し、周りの変化に合わせて自分の方をさらりと変えていくのが自然の姿であり柔軟性を持ったということです。そのためには変わることを悪いこととは思わず、新しくはじまることを好いことだと信じ、常に挑戦していくのを楽しもう、どんな未来になっていくのかをワクワクしてやってみようと好奇心を発動させていくことで柔軟性はさらに磨かれていくものです。

この柔軟性がなくなってきて固くなれば死に近づいていきます。あの新芽の若い新緑の木々たちのような柔らかな姿、新しい環境に自らが喜んで周りと一緒に成長していこうとする豊かな姿。成功や結果よりも、「成長する喜び」に生きようとするものはすべてにおいて柔軟性を発揮していくように私は思います。

マジメニチャントヤロウとするよりは、成長していこうと機会をチャンスととらえてその機会を活かすような生き方をすることでいつまでも若い瑞々しい柔軟性を磨いていくことが変化そのものになっていくことのように思います。

あの三つ子の魂たちのように、イキイキワクワクと成長していく仕合せと伸びる歓びのままに純粋に生きている子どもたちのような姿こそ柔軟性でその子どもたちのあこがれるような生き方を志すのなら決して忘れてはならないものがこの伸びる感性を持ち続けることなのです。

常に成長を信じてやっているか、常に変化を味わって好奇心で取り組んでいるか、自分の好奇心が枯れて干からびていかないように常に変化の水分を吸収して明るい光をもって伸びていきたいと思います。

失われていく文化

昨日、佐賀県鹿島市にある創業100年以上続く漬物蔵「漬蔵たぞう」に訪問してきました。聴福庵の風呂に使う樽を譲っていただくことになり選定と発送作業を一緒に行いました。

その樽はすでに50年以上経過しており、15年前から使っておらず今では蔵の中の大きなモニュメントとして活躍していたものです。蔵を拝見すると、その空間には発酵蔵として長年生き続けてきた息遣いを感じ発酵場があることを実感します。

私も自宅裏の森の発酵場で伝統の高菜漬けを種から育てて漬けていますが発酵場独特の空気感や酵母の醸す香りや佇まいには癒される思いがします。この蔵の中に置いてあった樽には、100年間漬物一筋に手作りで手掛けてきた人との思いや、その中で共に暮らしてきた菌たちも樽に住み着いているように思います。

その樽を使わなくなった理由をお聞きすると、桶職人さんがいなくなったことが一番大きいと仰っていました。これだけの巨大な樽のたがをしめることができる桶職人がこの地域からいなくなりメンテナンスができなくなったそうです。

この地域は、肥前浜宿といって長崎街道の脇街道として酒造を中心に栄えた宿場町です。本来は酒を醸造するために大きな樽がたくさんあったものですが、その樽も次第になくなり桶職人さんもいなくなって今に至ります。

本来、伝統文化というのは職人さんがいてこそ成り立つものでそのつながりの中で様々な伝統が維持できていきます。大工、左官そして鍛冶師と研師が一体であるように、この樽や桶と酒、漬物、味噌、醤油などの発酵師たちもまた一体なのです。

意味があってあった職業が今では西洋のものと挿げ替えられ、伝統のものを修繕したり修理する技術も失われていきます。消えていく文化というものは、連綿と続いてきた先祖の知恵が消えていくということです。

先祖の知恵によって数千年も生き続けてきた私たちはこの風土の中で生き残るために真摯に改良を重ね今も存在できていますが海外から入ってきた風土にそぐわない技術に安易に便利だからと飛びつけば取り返しのつかないことを未来に残してしまいます。

たとえ小さな種火であったとしても、その種火が遺るのならその種火からまた火を大きくしていくことができます。私が取り組んでいる伝統の高菜も種があるから続けられ漬け続けるから子孫へと継承していくことができます。

こんな時代だからこそ忍耐力が求められますが、何をもって成功というのか何をもって成長というのか、失われていく文化と向き合いながら子どもたちのためにもあらゆるものを甦生させ活かしていくために発明に挑戦していきたいと思います。

ご縁いただいたこの樽は、これから福岡県八女市の松延さまの手によって聴福庵のお風呂として甦生します。このお風呂の一つの物語が子どもたちに伝承され、末永く心に残っていく風景を醸し出すようにと祈り見守りたいと思います。

・・・義を見てせざるは勇無きなり。

たとえ目のくらむような巨大な壁に怯みそうになっても、失われていく文化を前に今、自分にできることから実践していきたいと思います。

生きる道~生き方と生き様~

一般的には人は職業によってやっていることが異なるものです。職業の違いで立場や役割を分けたりしては、その立場を守りその役割を果たそうとします。しかし現代に入り、ますます多様化した社会と合わせてAIなど人工知能の出現でこれからの職業は大きく変わっていくように思います。

そもそも職業から私たちは先入観でこういう仕事だと思い込みますが、職業がそうだからとそこから生き方まではわからないものです。医者をはじめ教師、もしくはなんらかの職人であってもその人の生き方次第では同じ職業であったとしても全く異なることがあるからです。

私たちが本来、大事にしないといけないのはどのような生き方をするかを決めるのであってどのような職業に就くかというのではないと私は思います。職業に就いたからそうなったのではなく、どのような生き方をするかと覚悟を決めたからこそ人は為るからです。

人物というのは、世界のどの場所にも存在していてそれは職業で分かれているのではなくやはり生き方で存在します。どんな生き方をしているかを観て、そこに自分が共感し、その生き方を尊敬して自分の生き方に反映させていくということ。

これが生きる道であり、どんなにAIや人工知能、また社会が多様化して時代が変化してもこの生きる道は変わることはありません。

生きる道とは生き方のことです。

「あなたはいったいどんな生き方をしますか?」

この問いは、一日の時間の中でどんな生き様をするかということ。自分の決めた生き方が生き様になりますから、どんな生き方をするかがその人の人生そのものになっていきます。

職業の別や方法論に入る前に、自分の生き方に出会うことが自分の生きる道を見出すということです。後ろから歩んでくる子どもたちのためにも誰が何と言おうと勘違いされようと、自分の生き方は自分で決めて自分で貫くような人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

水の循環~地下水のめぐり~

自然農の田んぼで稲作をはじめて7年になりますが、田土に入る水の流れも変化してきたように思います。水を流し続けていれば、土の中の泥が次第に流されて小さな石が出てきます。ここの田んぼの水はきれいな山水を使うため、沢蟹やエビなど清流にすむ生き物たちでいっぱいになります。

そもそもこの水は地球を常に循環しているもので、山にある水は雲が雨を降らせた水です。そしてその雲もまた海や陸から蒸発した水が上空で冷やされ雨を降らせています。さらにはその降らせた水は、土の中に浸み込み地下を移動していきます。それを地下水といい、植物や木々たちはこの水を吸収してその水を葉から発散させていきます。

この地下水のあるとこを掘れば井戸ができます。井戸はその地下水の流れているところに穴をあけ地下の水をくみ上げる仕組みのものです。この地下水は、膨大な量の水が移動して地下をめぐりそれがあらゆる大地につながっていきます。

田んぼの土を掘ればすぐに水が溜まってくるのは、その土の中にいつも水が流れているからです。深く根をはる植物や木々はこの地下に流れる栄養豊富な水を吸収し太陽の光を浴びて風に吹かれて成長していきます。

私たち人間も同じく、その地球の栄養素の中で太陽の光と大地の水、それが空気の中で融和し風になり大きなめぐりの循環の中にあっていのちを育てていきます。何百年間もしくは数千年、数万年を経て水は地球の内部を移動していき水を浄化していますがその恩恵をいただき私たちが暮らすことができるというのは何ともありがたいことです。

古来の人たちはその水の巡りを知り、水がどのように流れてあるのかを知りその土地のことを想像したように思います。水脈を知ればその土地の水の流れがわかる。その水をどのように大事にして暮らしの循環の中に活用してきたか。自然から離れて暮らしている現代には見えにくいことかもしれませんが、地下水のことを思えばその上に住む私たちの生活様式の変化が観えてきます。

今度、聴福庵の井戸が甦生しますが地下水のことを改めて見直しそこにある水の流れを感じるような環境を用意してみたいと思います。引き続き、古民家甦生を味わいながら子どもたちに伝承する自然の仕組みを身近に感じられるように創造していきたいと思います。