御井戸~水の見守り~

人間は古くから水とともに暮らしを実現していきました。水がなければ生きていくことができず、常に水は人間にとっては欠かせないものです。かつては水の近くに居住区を構え、河川の近くで生活をしていたのが井戸を掘る技術を身に着け他の場所場所へと居住区を広げていきました。

いつ頃から井戸があったかというのは遡ることはできません。遺跡ではいろいろと遺っていても、きっと遺跡のもっと前からこの世に存在していたはずです。掘り進めていけば水にあたるというのは、下から水が湧き出ているのを発見してからずっとあったと私は思います。

井戸が本格的に国内に広がっていったのは、弘法大使空海が唐から技術を持ち帰ってからだともいわれます。かつて井戸は、清らかで冷たい水が湧き出すことから冥界とつながっていると信じられ水神様や龍神様が祀られ大切さにされてきたといいます。

各家庭には必ず井戸があるといっていいほどに井戸を持ち、また地域の中の大きな井戸では井戸端会議といってみんなが集まり水の周りで話をするようなコミュニケーションの場が醸成されていたそうです。

今では水道が整備され、ほとんど井戸の存在など忘れ去られてきていますが少し前までは私たちの暮らしをずっと支えてきたのはこの井戸水であったのです。この井戸水は風土の水であり、その水を飲むことで私たちは風土の恵みをいただくことができます。

「水が合う」という言葉もありますが、そこでの暮らしが居心地がよかったりその風土が体に馴染むというものもこの水が関連してきます。自分の合った水を飲むのがその人の居場所やその人の体質に合うもので自然とそのような環境に移動していったのかもしれません。

今では地域や場所の違いはほとんどなく、あちこちに移動したり引っ越ししたりしてあまり水が合うかどうかなど気にもされませんが、本来、家や井戸などは森の大樹のように動かないものです。

その動かないものが守ってくれるように、家で暮らす人たちのことをずっと見守り続けています。そういう存在に神様が宿っていると信仰したのがかつてのご先祖様たちだったように思います。長い期間をかけて見守る存在を神と崇めて奉る、その姿勢そのものが信仰の源だったように思います。

あるご縁から聴福庵の井戸を甦生することになりましたが、暮らしの中に井戸があることが大切であることを実感します。引き続き、子どもたちのためにも暮らしの甦生を深めていきたいと思います。

好きになること~時間の使い道~

人は時間の使い方を観ればその人の生き方がわかるものです。その人が一日24時間を何に使っているか、また一週間の168時間を何に使っているか、さらには30日、1年とその時間をどう過ごしているかでその人の生き様が観えてきます。

例えば、一日の仕事を好きでやっている人は一日中好きなことに没頭していきます。好きでやっていることだからそれは単に時間を浪費しているのではなく、好きなことをするのに大切な時間を使っていることになります。

私も好きなことややりたいことが山ほどあって寝たくないけれど寝ないといけませんから寝ますが、寝ても覚めても好きなことのことを考えています。もちろんそれは単に趣味に没頭しているというものもありますが、やっていることがすべて一つの目的につながっていると感じることができればすべてのことが好きでやっていることに気づくのです。

やりたくないことや大変なことがあったにせよ、この時間は二度と戻ってこないものです。その時間をどのように大切に使い切るかは、その人の問題意識に由るものです。この体験はきっと誰かや未来に役に立つ、この経験はきっと何か大切な意味を含んでいると深めて内省を続けていれば後になってやっぱりあれはとても大切なことだったと気づきます。

そういうことが連続で起きてくると、好悪で仕事を選ぶのではなくそのすべてを愛せるようになってきます。よく考えてみると、好きになるというのは単に好き嫌いの好きではなく嫌いなところがあっても好きであるということです。つまりいろいろな欠点や問題があったにせよそれでも好きなっているということです。

一日の時間の使い方の中で、どれだけ好きなことに没頭できるかでその人の一生は決まるように思います。それは嫌いなことを排除しようとする努力ではなく、好きになっていく努力、それほどまでに好きになるほどに時間を大切に生き切ったかという自問自答の集積だと私は感じます。

時間をどのように使うか、それはその人次第です。

少しの時間も無駄ではないとその時間そのものを楽しんでいけるようになるには、自分自身の人生を好きになると同様に時間を好きになるということです。与えられたものに文句を言うのではなく、与えられたすべてのご縁を好きになること。

つまりは自分にとってもこの時間はもっとも相応しいものであると受け止め、それを真摯に時間に還元し時間に尽くしていくことのように思います。

この時間は二度とないからこそ、どの時間もかけがえのない大切な人生です。出会いを好きになり、ご縁を好きになり、経験を好きになり、ありとあらゆるものが好きになったとき、人は自分自身のことを本当に好きになるように思います。

自信と誇りは時間の使い方次第です。

引き続き、子ども第一義、すべての時間をその一点に集中して歩みを刻んでいきたいと思います。

理念の共有

誰かと何かをやるときに理念の共有というものは大切なことです。特に組織でいえば全体を一緒にカバーしていくような柱の人たちはこの柱を支える役割がありますからその柱がちゃんと立っている必要があります。

もしも柱がどこかにいってしまったり支えていなければ、それは全体の家を支えることができなくなるからです。だからこそこの理念の共有は、柱を支える人たちにとってはなくてはならないものだともいえます。

家であれば柱が傾けばその柱に重みが一点に集まって乗ってしまうことはわかります。傾いた柱に重みが乗ればあっという間にその全体の重量がかかり家が傾いてしまいます。そうならないように周りの柱も一緒に支えることで家は立っています。

例えば他にも重たい石やものを持つときにも、持ち上げる際には一人よりもみんなで持ち上げることで持ち上がります。その際は、一緒に息を合わせて持ち上げることで持ち上がります。これもまた先ほどの理念の共有と同じく、みんなで支えて持ち上げなければなりません。

自分だけでやろうとするのではなく、みんなに協力してもらって持ち上げていくこと。そのためにも理念の共有は欠かせないのです。大黒柱がもしも家からなくなってしまえば、その家は少しの災害でも倒壊してしまいます。同じくチームの中での大黒柱がなくなればそのチームも同様に崩れてしまうかもしれません。大黒柱とそれを支えるチームの人たちが如何に目的を共有して一緒に組織を支えるかは、その目的の共有の質量に由るのです。

目的の共有とは、何のためにやるのか、誰のためにやるのか、なぜこれをやるのかという意識の共有のことです。意味があってやっていることであっても、その意味が分かっていないのでは目的が共有されているのではありません。

一回言ったからいいではなく、何回でも耳に胼胝ができてでもその目的を伝え続けなければなりません。それが本質であり続けることであり、本来の目的に対して誠実にみんなで力を合わせて取り組んでいくことになります。

柱が多ければ多いほど、また真っ直ぐに凛として立てば立つほどにその家は強く逞しくなっていきます。自分が支えているものが何か、何をすることが支えることなのか、その経過を理解し合い持ち合うことが家を守ることになります。

幹部というのは木の幹、根幹の幹ですからこの経過を常に確認することはチームや組織において何よりも優先していく必要があると私は思います。

引き続き、お客様の理念がブレずに目的に向かえるように理念の共有を説いていきたいと思います。

 

宿る

昨日は、熊本から長くお付き合いいただき一緒に理念の実現に向かって取り組んでいるお客様が聴福庵にきてくださりお泊りされました。

すぐに箱庭を気に入っていただき、庭木がとても喜んでいるように見えると仰られありがたい気持ちになりました。ちょうど昨年、鬱蒼とした庭木の剪定を素人ながらに必死に行いすっきりさせ、その庭に年代物の春日燈篭や江戸中期の壺、そのほかにも竹垣や土器、睡蓮鉢にメダカを育て水盤、いろいろな道具も配置していきました。

それに苔も8種類ほどのものを混植し、観音竹や山の清流に流れている石や草草なども移動しました。それから約一年経ち、鑑賞していただけるものになりそれを誉めてくださる方が出てくると、庭に一つの空間が宿ったことを感じます。

そもそもこの「宿る」という言葉は、いのちが宿るや魂が宿る、もしくは宿命といういい方もします。この宿は、単に泊まる場所をいう場合と、宿るといってそこにすまうものがあるという意味もあります。

私たちの体にもいのちと魂が宿ることで存在します。宿っていないものはすぐにわかります。この宿るというのは、目には見えませんが確かにそこには思いや願い、祈りや精神、そういうものがいつまでも留まっているということです。

魂を宿しておくというのは、体がたとえなくなったとしてもその魂自体はその空間やその道具に遷して留めておくということです。それは物に限らず、言葉であったり、建物であったり、遺し方はいろいろとありますが大切なのは宿らせることなのです。

暮らしも同じく、そこの家で取り組んできたものはその空間に宿り続けています。それは継いでくれる人によってさらに高められ、確かに宿ったものに由って甦るのです。

私たちは死んでなくなるという発想を持つのは自分のことや自分の代のことだけばかりを考えるからで、死なない存在がある、つまり宿るのだということに気づけばその生き方やプロセスの方を大切にすると思うのです。

宿っているものを見てくれる人がいることがありがたく、この道をしっかりと踏みしめていきたいと決意と覚悟を新たにしました。

子どもたちのために、何を大切にし譲っていくか、本質を守り続けていきたいと思います。

志結

吉田松陰が死の直前に書いた留魂録というものがあります。これは辞世の句からはじまり、仲間や同志、弟子たちには「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と記し、家族宛に「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」と記しています。

これと同じく、「諸友に語(つ)ぐる書」というものを遺しました。

ここに最後まで忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」

意訳ですが、「君たちはきっと僕の真心を理解していることと思います。これから先に死んで逝く僕のことを決して悲しまないでください。僕の死んでしまうことを悲しみ同情することは、僕の本心や真心を理解してくれたのではありません。もしも僕の本心や真心を深く理解して同情してくれるのなら、僕の志を受け継ぎ、この志を更に大きく実現してくれることなのです。」と。

ここに最後まで真心に生き切り、自らの志、その忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

志は、自分の人生だけで完結するものではありません。何代も先のため、せめて七代先のことも憂い、自分がその使命を果たそうとするのです。志を継ぐというのは、それだけ物事を長いスパンで考えてその志のバトンを受け継いでまたそれを次に渡していこうとする試みなのです。

例えば、孔子や仏陀、キリストをはじめ、神話や伝説などもそれは語り継ぐ人がいたから今の私たちがその言霊と真心を理解することができます。数千年以上前の出来事が今でも生き続けているのは、その志を継いでくれた人たちがいたからです。

その志を継ぐことは、決して頼まれた結果を出せばいいのではなく同じ生き方をしていってほしいという願いと祈りに近いものがあるのです。自分の真心や本心は何か、それは未来の子どもたちや子孫のためにも、先祖のためにもこう生きたいという心そのものです。

その心のままに歩んでほしいと願い、その心が同じであるから共に同志が集うのだから守るべきは自分のことではなく志を守ろうとするのです。守るものがあるから生きられ、守るものがあるから本来の自分の使い道があるとも言えます。

何を守るか、何を信じるか、何のために生きるのか。

これらが志と結ばれ、その志が永劫に受け継がれ生き続けるのです。吉田松陰にこんなに惹かれるのは、志が同じくするからかもしれません。別に外国を追い払おうとしたのではなく、大和魂を守ってほしいというのが志だと私は思います。

引き続き子どもたちに大和魂を譲り遺すためにいのちを懸けていきたいと思います。

稽古の意味~初心伝承~

人は初心を磨くことで初心に近づいていくものです。その初心とは、目的そのものであり本質のことです。それをどう磨くかといえば、それを何度も思い出してはその初心のままかどうかを確認して実践し学び続けることです。

そしてこれを稽古というように私は思います。

師が弟子に稽古をつけるというのは、単なる技術だけを指導するのではなく生き方を指導してくれます。その人の生き方に触れることで自分が初心を思い出すことができるからです。

そもそも人は日々の些細な出来事の中で、何のためにやるのかということをいちいち考えずに日々は流されるままに動いてしまいます。特に環境の影響を受け、環境の中で最善を考えているうちに本筋からずれてしまうことあるのです。

その時、自分自身を振り返り、自分が本来の目的に向かっているか、初心に対して誠実であるかと内省を繰り返すことで本道からそれなくなっていくように思います。

それを稽古していくともいい、ここでの古(いにしえ)とは初めての心のことであり、産まれたときの心境に回帰しそれを稽(かんがえる)ということです。この稽の字は、もともと留まる、引き留める、頭を地につけるという意味があります。

そうやって繰り返し稽古することで人は上達していきます。

理念を浸透するというのは、自分はもちろんのこと一緒に目的に向かって取り組む仲間も同時にこの稽古を積みかさねていくということです。理念は創造して初心を発信することで物事の半分が終え、残りの半分はそれを稽古を継続することで半分を終えます。

結果にとらわれて初心を忘れるようなことでは、周囲も方向を見失います。大事なことを忘れないようにするのは、自分の生き方の稽古の研鑽を積むことです。

引き続き、理念が仕事ですから自分自身が稽古を積み精進していきたいと思います。

 

四季のめぐり

昨日は、聴福庵の箱庭のカエデの選定を行いました。昨年は、時期がずれていたこともあり大量の毛虫が発生しそれを食べる蜂もたくさん来ていていろいろと虫に刺されひどい目に遭いました。

今年は、昨年の四季の巡りを体験しましたからどの時期にどのような手入れをすればいいのか体が覚えています。田植えなどもこれから行いますが、何年も四季の巡りを体験すれば自ずから体が覚えて全自動的にタイミングを合わせてきます。

私たちは自然から離れて時計やスケジュールに体を合わせますが本来は四季の巡りに合わせていきているのがすべてのいのちです。そのいのちが四季に合わせるからこそ周囲とのタイミングも合ってきます。もっとも無理も無駄もなく、周りの様子を感じてどの時期に自分が何を動けばいいかを自明するのです。

本来、タイミングと合わせる力というのはもっとも大切な力です。タイミングが合わなければ何をやってもずれてしまうこともあります。そうなれば徒労に終わるばかりで何をやっても周囲との不調和が生まれるのです。

自然に四季があるように自分の体にも四季があります。その四季の巡りを熟知し体で体得するというのは自分のことだけではなく周囲のことも深く理解していくために必要なことです。

この四季の体得は、体を使って感じるしかなく、それも一年の四季の巡りを全体で掌握して時期を感じながら生き続けるしかなく、ここに人間の五感を磨き生き方ががらりとかわる理由があります。

何か自然物を自然に共に育つ関係を持てば、すべての生き物は四季に合わせて変化します。その変化に応じて自分自身を変化していくことで体が変わっていきます。体を四季に合わせて変化していくのは自然の道理に従って自分の感覚を研ぎ澄ませていくものです。

その研ぎ澄ませて感覚を得れば全体把握ができるようになります。人間はどれだけ大きく全体を観るかで自分の動きも変わってきますからこの感覚は人生を生き抜くためにはとても大切な力になります。

地球の流れとともにある生き物たちは、四季とともにあるとも言えます。引き続き四季に合わせて四季の巡りを学びつつ、自然一体の境地のままに道を歩んでいきたいと思います。

修繕理~福の思想~

現在、大量生産大量消費の価値観の中で新しいものを買っては古いものをすぐに捨てていく風習が日常になっていますから修繕や修理ということは失われてきています。

先日も長年使っていたプリンターを修理したいとメーカーにいうと、修理するよりも購入する方が安いことと昔の機種はもう取り扱いもないので廃棄してくださいと言われました。

この修繕というものは、辞書では壊れたり悪くなったりしたところを繕い直すこととあります。そして修理は、壊れたり傷んだりした部分に手を加えて、再び使用できるようにすることとあります。

長い時間をかけて使っている住まいや道具は、時間が経てば自然原理によって傷んでいきます。そのままにしていればすぐに壊れるものも、よく手入れをし修繕を続けていけば本来の寿命も何十倍も長く活かし使うことができます。

また壊れたものであっても修理をすれば、元のように使い続けることができます。そして修理をした後は、よく修繕を繰り返しそのものが長く生き続けられるように手伝っていくのです。

聴福庵では、明治初期の鋳物が入った桶のお風呂があります。もう100年以上経っていますからあちこちが傷み私の手元に来た時には床が抜け、鋳物の周りは腐食して穴が開き、あちこちが虫食いで破れ、ほとんど使えない状態でした。それを桶屋さんにお願いして修理し、届いてからは柿渋と渋炭、またヒバの油で塗装し、桶の内部は竹酢やにがりを用いて木を活かし続けるように利用します。また鋳物は、適宜清掃し、また鋳物を傷めないように備長炭を用いて使います。

こうやって大切に修繕を続けていけば、そのものも大切に扱われている風格が出てきます。昔の大工さんの大工道具や、左官さんの鏝、また手作業手仕事をする人たちの大切な道具と同じようにそのものから熟練の実力が備わった徳の高い姿に変化します。

修理や修繕というものは家屋をはじめ神社仏閣にいたるまで、そのものが長く続いた歴史の中にそれを大事に守り続けてきた人たちの修繕理の歴史があります。そこには大切な思いが宿り、その宿った思いを持ち続けながらそのものは生き続けます。

修理や修繕というのは、決して貧乏くさいことでもなくケチくさいわけでもなくいつまでも大切に使い続けたいというもったいない心、美しい精神なのです。

取り繕いというのが単なるその場しのぎのように使われますが本来の修繕というのは決してそういう意味だけではなくそのものを大切に守り使い続けたいという愛情や真心、寿命を伸ばしていこうとする「福の思想」が入っています。

修理できる人がいなくなっていく寂しさと、修繕しようとする人がいなくなっていく切なさがありますが子どもたちのためにも今とこの世代を磨き上げ復古創新し先祖から大切にしてきた美しい精神やもったいない心を生き方を通して譲り遺していきたいと思います。

和が宿る

古民家甦生を続けていく中で、古いものを磨き直し新しくし、さらに手作業手作りのものに入れ替えていくと落ち着いた空間が発生してきます。その空間に入ると、とても心穏やかになりなんともいえない安心感に包まれます。この空間に入ると落ち着くという感覚、これが日本の伝統的な「和」のことです。

和むというのは、心の作用を言います。そして心はそのものと人、人と人、すべてのものが相調和したときに空間に一切の邪魔が入らず無為自然になるのです。これは自然の中に入るのと同じで、あるべくしてありなるべくしてなる。日本の風土に沿って日本の伝統的なものに包まれたとき、私たちは心が安らぎ和むのです。

例えば、都会の喧騒と鉄筋コンクリートの壁の中でのむ一杯のお茶とこの日本の和の空間の中でのむ一杯のお茶は同じ味にはなりません。舌先三寸の味はどれも同じであっても、心が落ち着いて和むのはそのお茶によって周囲の空間に気付けるのであってお茶がそれをなしているのではありません。

私は茶道のことはよくわかりませんが、伝統的な自然な日本民家で鉄瓶でじっくりと沸かしたお茶の味わいは心がよく知っています。その心の落ち着きはすべて和からきているものです。この和とは、日本の道具を使えばいいのではなくそこに流れている暮らしや主人の精神、人と家と道具が見事に調和するときに出てくるものです。

空間とは呼んで字の如く、「空」の「間」です。

その間を如何に空にするか、そこに邪魔が入るような私欲や邪念を一切捨て去って真善美の徳を顕すこと。そういう空間にこそ場が生まれ和が宿るのです。

古民家甦生を通して磨かれるのはその和の精神、大和魂です。

引き続き子どもたちに和の精神、大和魂を伝承できるように真摯に「場」を磨き続けていきたいと思います。

生き方と働き方の一致

生き方と働き方というのは本来は分かれていないものです。しかし人生で仕事のために時間を使い、プライベートで時間を使っていたらその時間は24時間を二つに分けなければなりません。本来は同じ人生なのだから、公私の違いはなくすべては人生の目的のために使われるものです。

昨日お会いした方も生き方と働き方を分けていない方で、大変お忙しい人ですが人生がとても充実しているのを感じます。その方は、一石二鳥では間に合わないから一石五鳥くらいを狙っていくと仰っていましたが、いかに生き方と働き方を一致させていくかというのは時間を大切に人生を生ききるにおいて大切なことだと私も思います。

周囲からすればなんであんな大変なことをするのだろうと思われても、人生の時間は刻一刻と過ぎ去っていきます。大志があるのなら、時間がないと時間のせいにせず、お金がないとお金のせいにもせず、人がいないからと人のせいにもせず、ただ坦蕩蕩と目的に向かって自分で捻出していくしかありません。

よく世間では、ないからできないといいますがないからできないのではなくやろうとしないからできないという考え方もあります。やると決めるから時間ができ、やると決めるから人が集まり、やると決めるからお金ができる。すべてはやると決める覚悟にこそあります。

その覚悟が決まれば、自ずから生き方が決まり、そして働き方が決まります。つまり自分というものの使い方が定まってくるように思います。先ほどの公私を分けないでいえば、自ずから公私の公になります。つまりは本物の公になる、自分が自分のために使っている時間がすべて人々のためになっていくという境地です。

公私混同とかいいますが、それは私を混同しただけで公ではありません。いかに来たものを選ばずに天命に従い自分の使命を全うするかは生き方と働き方の一致で見極めていくことができるように思います。

「何のためにやるのか」と本質を突き詰めれば突き詰めるほどに世の中で分かれているものは融合していきます。世間の物差しではなく、自分自身の物差しができれば日常の時間の使い方、つまり生き方の方も変化していくものです。

大志を抱き使命に生きる人は、人生が目的に一致していきます。それが生き方と働き方の一致ということです。

引き続き、さらに本質を追求し日常を好奇心で楽しみ、子どもたちのために学問を深め道を究めていきたいと思います。