乗り越えることの意味

人は何かを諦めていろいろなことが嫌になってしまう時もあります。幼いころから他人の評価を気にして自分を責めたりすれば自己嫌悪になり自暴自棄になってしまいそうにもなるものです。

誰かと比較しては自分のことを評価する癖を持ってしまうと本当の意味で自分自身のことをあるがままに評価することができません。本来は比較することをやめて自分は自分のままでいいと思えればいいのですが、自分で自分自身を理解するには大変な時間と苦労もかかるのも事実です。

しかしその大変な時間と苦労は、必ず誰かのお役に立つのも事実です。そう考えてみると、なぜ自暴自棄になりそうなときでも諦めずに遣り切ることができるのかと思えばそれが必ず誰かの役に立つと信じることができるからです。

自分の悩みや苦労は、同じように悩み苦労する人たちの力になっていきます。自分だけがこんな苦労をしてというようにちっぽけな自分に囚われてしまえばその苦労は乗り越えられないような気がします。しかし同時に、この苦労はきっと他にも同じように苦労している人がいるはずでその人のためにも自分が遣り切りたいと思えるかということです。

それが逃げない理由になり、乗り越えたいと思う勇気になっていきます。

事物から逃げずに残る理由というのは、自分がその役目をいただき自分がその大切な役割を果たしたいという使命感かもしれません。さきほどの評価でも同様に比較され苦しんだことがあるからこそ自分はそれに向き合い乗り越えて同じように苦しんでいる人たちの勇気になろうと諦めないでいられるのです。この諦めないというのは、誰かの力になるのを諦めないということです。自分のことは諦めそうでも、自分が諦めたら誰かのお役に立てなくなるから諦めないということです。

そして自分が逃げたらそれを他の誰かがやるだけです。しかし逃げても他のことがやってきます。それが人生であり、その人生で自分に与えられた課題をどう受け止めてそれを乗り越えて社會のお役に立てていくか、それが人間共生の一つの役割のように思います。自立というのは、それだけ多くの人たちの力になるように思います。

振り返ってみると、なんでこんな大変なことにと思うこともありましたがそれを乗り越えさせていただいた御蔭様で今では同様に苦しむ多くの人たちのお役に立てています。有難いことは、自分にそのお役目を与えてくださった自分自身の存在、乗り越えてきた意味の方です。

諦めない心を育てるのは自分自身を嫌いになるのではなく、乗り越えられる自分自身をもっと信じることのように思います。自分自身の存在丸ごとで誰かのお役に立てていく方が、生きやすく、自分を愛せるように思います。

引き続き、来たものを選ばずにいただいた苦労を自分自身を信じて受け取って乗り越えさせていただけるように精進していきたいと思います。

 

お天道様と素直な心

お天道様という言葉があります。これは天の道のことをいいますが、昔は「お天道様がみてますよ」と天の道に背かないように正道を歩みなさいとみんなで声掛けを続けてお互いに見守り合い生きてきたといいます。

日本人にはもともと「恥」という意識があり、常に道から外れないように自戒を持ち社會を形成してきたといいます。今ではあまり聞かなくなりましたが、このお天道様の存在は人間がごう慢になっていかないための大切な社會の基礎だったように私は思います。

この天の道とは何かといえば、自然に沿った道のことでもあります。人間だけにとどまらず全ての生きものたちは天の助けによって活かされている存在だとも言えます。この天とは、宇宙であり自然であり、自分たちを存在させてくれているもの全てのことです。その天の助けが入ることで人はこの世に存在することができています。

いつもその天の御蔭様の存在を感じて生きていけば、人間の欲望だけを優先して生きていくことが正しくないことをすぐに気づけるものです。天の道、天の助けを借りて、今度は人の道、人の助けがあるのが人生です。

その天の助けが入るような生き方とは、お天道様が見守ってくださっていると信じて天の声に従い天命に生きる人にこそひかりが宿るように思います。そのためには、そのお天道様の声が聴けるような素直な心が必要ではないかと思います。

素直な心は、天と一緒にあると思うのです。

天と一緒にあるものは、志を同じくする仲間に恵まれ、そしていつも有難いご縁に導かれ、豊かに大義に生きることができます。

今の時代、あまりそういうことを言う人もいなくなったのは住みながらにして価値観だけが別の国の文化にすげ代わって本来の生き方が入れ替わってきたからかもしれません。

古人が師としたものを師とし、ご先祖様が大切にした生き方を守って、子どもたちに確かな道筋を遺し伝道していきたいと思います。

日本的な精神の醸成

先日、聴福庵で暮らしの体験をした高校生に体験して気づいたことを教えてもらうと改めて学び直すことがありました。

「滞在中ずっと季節を感じることができた」とか、「理屈抜きで手間暇をかけるということを肌で感じることできた」とか、「今まで泊まった高級旅館などと比べてどこよりもドキドキワクワクしっぱなしだった」とか、短い滞在時間で思っていた以上に深い体験をしてくれたのが分かり有難い気持ちになりました。

伝統的な日本の家屋には、昔からある日本的な場があります。それを主人の心得として家が喜ぶかどうかを重んじ、かつての暮らしに忠実に温故知新することで「古くても新しい」という境地を産み出すことができるように思います。

現在では、西洋から入ったきたものを新しいと呼びますが本来はかつての日本の文化が温故知新されて進化することで新しいと呼んでいたものです。かつての文化が取って代わられていることは決して新しいのではなく、「すげ代わった」だけで本来の新しいとは今の時代の子どもたちに伝承されその子どもたちがその時代の価値観に合わせて自ら文化を進化成長させるときにはじめて新しいと呼ぶのです。

今では衣食住すべてが、ほとんど西洋のものにすげ代わっています。そして西洋から入ってくるものを新しいと飛びつき経済も発展させているようですが独自の文化で進化させていかなければ本当の意味で世界の中での日本の発展はないと私は思います。

だからこそ、子どもたちには本物を遺し譲り、そこから学び、感性を磨き、伝統的な日本の精神を持ちつつも世界の一流と渡り合えるほどの柔軟性を身に着けて立派なリーダーを育成していく必要があります。そのリーダーになることを私は国際人と呼びます。

国際人はそれぞれの国の文化を正しく伝承し、それをものにして世界と対等に語り合うことができうる人材です。そこには単なる西洋の真似事ばかりで名誉や地位や知識ばかりを持って偉くなることではなく、日本の文化や自然に精通し、真理を語れ実践により実力を磨いている必要があります。

その修練の道場として、古民家と暮らしが教えるものはかけがえないない伝統的な暗黙知であり、その暗黙知を継承することで独自のアイデンティティが醸成されるように思います。

若く瑞々しい感性は、すぐに日本的な精神を取り戻していくという可能性を感じる3日間になりました。引き続き、真摯に子ども第一義の志のためにも暮らしの甦生に正対していきたいと思います。

未来の日本のために

昨日は、高校生たち4人に古民家甦生のお手伝いをしてもらいました。一緒に格子窓や外壁の板にベンガラ塗料を塗っていきました。その他には、庭の草刈りや掃除など一日をかけて暮らしの体験を行いました。

みんなはじめての体験だったそうですが、とても上手で手際よく、楽しそうに作業をする様子が印象的でした。今回は3日間ほど泊まり込みで体験してもらいましたが、古民家で子どもたちが生活を楽しんでいる様子に昔あったような懐かしい未来を感じました。

昔は資源も近くの枯葉や枝を拾っては竈の薪にしたり、草刈の草は農地の肥料にしたり、少しの無駄のない暮らしを心がけていました。経済には実質経済というものがあり、それは今のように虚構を繰り返し地球の資源の何十倍もの金額を動かすようなものとは異なります。

本来ないものをあるの物のように扱うことで、本来あるものの価値が失われている時代です。このような時代が永く続くことは考えにくく、どこかで必ず破たんしその幻想が失せ人類の価値観が転換される日もまた近いようにも思います。

その時、どれだけ先を歩んでいるか、どこまで見通して今に取り組むかは、今の時代を生き抜くリーダーたちの課題であろうと思います。子どもたちが体験を通して、世の中をどう観てどう感じ、多様な選択肢の中でどれだけ本物や自然に触れることができるか、これが未来の日本のためには必要であろうと私は感じます。

実際は、地球は何も変わっておらず虫や草、自然の生きものは何千年も同じように繰り返し巡りを続けていのちのバトンを渡し続けているだけです。しかし人間自身の社会を変えてしまったことで、人間だけが離れてしまったという矛盾があります。

この矛盾をどう受け入れ、お互いの持ち味を活かして末永く共生を続けていくか。まさに今の時代を生きるものたちの大切な使命を感じます。

引き続き、少し先を見通しつつ一手一手、手を入れていこうと思います。

 

智慧

昨日は、自然農の田んぼに田植えを無事に終えることができました。もう7年経ちますが、毎回学び直すことが多く自然の奥深さには感じ入ることばかりです。土と水と光、そして風、その空間には人の手間暇が入ることによる場と和、そして間が発生します。

自然の仕組みというのは絶妙で、その時期時期に必要なことが周囲に自然発生するものです。気温ひとつとってみても、生育に必要な温度がそこにあります。私たちはその温度に従い応じて生き物たちの育つための手助けを少しすればいいだけです。

育てているのは自分のように錯覚しますが、実際に育てられているのは自分だと気づく・・・そういう自反自然する境地が自然農の面白さではないかと年々感じます。

私たちは自然の仕組みの中で、学んだことが実際の人生に活かされます。例えば、「待つ」という仕組みもまた他力を活かすという智慧となります。他には、「共生」という仕組みもまた利他により活かされるという智慧になります。

自然には一切嘘偽りもなく加工もなくそこには真理のみ存在します。

その真理に触れることで、自分自身が知識ではなく智慧というものを会得するのです。

自然から学ぶというのは、言い換えれば真理にのみ生きるということでもあります。自然から学んだことを実生活に活かせれば、その真理は人々の間で活かせる智慧となりそれが伝承されることで文化となります。

人類が創始以来より今まで続いてこれたのはこの自然の智慧を習得してきたからです。つまりその自然の智慧の習得があってこそ人類が今から後も地球上で存在し続ける唯一の道だと歴史を鑑みて感じます。

人間は何を師とするか、これは大切な問いのようにおもいます。なぜなら自然から離れた真理を智慧とは呼ばないと私は思っているからです。

引き続き自然に学び、自然から学び直し、子どもたちに大切な智慧をご先祖様たちが学び取ってきたように在るがままに伝承していきたいと思います。

 

福の世

人間の心は、自然にしていればもともと備わっている善良なものがあるといわれます。孟子はそれを「人皆人に忍びざるの心あり」と呼びました。これは人間には忍びないという思いやりの心があるという意味になります。

この忍びないというのはあまり最近では使われなくなりましたが、私の解釈では相手の気持ちになってかわいそうと思いやるときに出てくる言葉です。もしも自分だったらと共感してしまう気持ち、他人事なのに他人事ではなくまるで自分にあったかのように感じる心の中には思いやりが息づいています。

その思いやりの心につながるものとして孟子は四端という言い方をしました。これは「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は知の端なり。人に是の四端有り、四體の有るがごとし。」つまり思いやりこそが仁とつながり、不善を恥じることが義とつながり、他人に譲る心が礼とつながり、善悪の見分けがつく心が智とつながっている。つまりは頭・胴・手・足というものが身体にもともと備わっているように人間にはその仁義礼智は備わっているのであるという意味になります。

これが孟子の言う性善説の根本です。

このかわいそうと感じる思いやりはどこからやってくるのか、それは生まれながらにして懐かしい心の中から湧き出てくるものです。生きていればこの世の中にはどうにもならない不幸なことがあります。自然の災害に巻き込まれたり、理不尽な死や病に見舞われることもあります。

そんな時どうにもならないやるせない気持ちとなぜそんな目に遭わなければならないのかと複雑で気の毒に思う気持ちが出てきます。人間にはかわいそうと思う真心が最初から備わっているというのです。

このかわいそうは決して上下や格差の同情のかわいそうという意味ではありません。ここでのかわいそうは、慈愛の心、この世にいのちを創造するものの心とも言えます。

そういう心があるから協力や助け合いがうまれ、より善い循環を行っていこうとする善良な心が働くのです。これらは、現代では科学的にも証明されてきており遺伝子や細胞、その他、生き物たちにはそういう共存共栄して思いやり活き合うという真理が備わっていることが分かってきています。

だからこそ、改めてその四端や仁義礼智の徳を磨き高め世の中にその心が発揮されるような環境を創造していく必要があるように思います。その心が出て来にくい環境とは何か、それは幸不幸ばかりに囚われその中にある福を感じられないことにあるように私は思います。

世界にその思いやりの心を弘げる鍵は「福の世」にこそあります。その真の福世かな社會を創造するためにも一円観、一円対話の実践とその環境の醸成に命を懸けていきたいと思います。

目の保養

昨日、自然農の畑のオーナーでいつも見守ってくださっているご高齢の方に聴福庵に来ていただきました。かねてより古民家甦生のお話はしていたのですが聴福庵をゆっくり見ていただくことははじめてでお話をしながら改めて生き方と働き方が変わってきたことも実感し有難い気持ちになりました。

聴福庵を見終わってからご自宅までご一緒するとここは見ものばかりだとしきりにおっしゃられ、最後に「目の保養になった、ありがとう」と感想を仰っておられました。きっと美しいものをご覧になったのだと感じ、さらに有難い気持ちになりました。

この「目の保養」という言葉はとても懐かしく、私の心にも深く響くものがありました。

日本語俗語辞書によれば「目の保養とは目に栄養を与えるということだが、目薬をさしたり、目の健康に良いことをするわけでなく、目を通して心に栄養を与えることで、美しいものや珍しいものを見て楽しむことをいう。また、そういった見て楽しめるものをさす。目の保養の対象は美術作品や風景といった一般的に美しい、珍しいとされるものに限らず、逆に一般には見た目が不快とされるものであっても、それを見て心が安らいだり、楽しめたりする人にとっては目の保養となる」と書かれています。

「保養」とは心身を休ませて健康を保つことであり、心が落ち着いたときに安らぐ表現であることに気づきます。目を通して心の栄養を得たという意味にもなります。

一年前を思い返せば誰も住んでいない主人のいなくなった家の傷みはひどく、柱もあちこち傾いて今にも壊れそうだった古民家がこれだけ人の心に安らぎを与える場所になるとは思わず、今では本当にありがたい場をいただいたと深い感謝の念が湧いてきます。

この心が落ち着くや心が安らぐ、心の栄養というのは懐かしい故郷に帰った時に感じる心境です。つまり帰ってきたという実感、懐かしいものに囲まれたという安心感、これを心は感じ取るのです。

古いものは決して単なる古いものではなく、悠久の歳月をともに支え合い暮らしてきた大切なパートナーです。古くなるから邪魔になり捨てるではなく、何度も磨き直せばその新たな発見と美しさに気づき、いつまでも一緒に生きていきたいと願うのが本来の心身の姿です。

ここ数十年で日本人の価値観も大きく変化しましたが、変わらないものも確かに心の中に生き続けて遺っています。

引き続き、懐かしい未来を子どもたちに譲っていくために感謝のままに志に生き、実践していきたいと思います。

和のぬくもり~古の暮らしの灯り~

先日から古民家に使う灯明の準備で、灯篭と灯明油を深めていました。この「灯り」というものは、電気の普及でほとんどが消失しましたがほのかにゆらめき温もりを与えるこの和の「灯り」は時代を超えて心を揺さぶるものがあります。

灯りといっても一概に全てのものを灯りと言えるものではなく、その灯りにも種類があります。例えば、電気の灯りと、蝋燭の灯り、石油系の灯りと、松明の灯りや和蝋燭や和灯明の灯りはその「灯りの質」が全く異なります。

陰翳礼讃にあるように、私たちの言う日本的な和は「空間」を指します。この空間をどのように演出するか、そこにおもてなしの心があります。手間暇をかけて庭を育て、伝統的な暮らしの道具に囲まれ、風土が醸成した古民家に住めばとても心は落ち着きます。その落ち着きの演出としてこの灯りは、闇の空間を活かした最高の道具なのです。

西洋のような上から照らす照明に対して、日本は全体を緩やかにやんわりと温めます。照明とは光を照射するというイメージですが、和灯りは光で周囲を温めるといううイメージです。

この灯りは囲炉裏の炭火に似ていて、その灯りの持つぬくもりに心が包まれ深く癒されていくものです。これは、私の観ている「火のぬくもり」であり、今の時代にはこの「ぬくもり」が内省を促し人々の心に優しさとしあわせを取り戻す場を創造するのです。

聴福庵が「ぬくもり」にこだわるのは、この和の暮らしを甦生しようと試みているからです。そこには必ず火があり、その火をどのように演出するかが何よりも重要になっています。

今回、玄関に用いる灯明油を用いた和灯りは来た人たちの心を深く癒すように思います。古の暮らしの灯りを研究することは和のぬくもりを深めることに似ています。

引き続き、様々な灯りを深めつつ、その灯りから心を磨き用い方を研究し実践を積んで和のぬくもりとの出会いに近づけていきたいと思います。

 

 

何を見据えているか

人はどれくらい先を見据えるのかで、今の行動が変わってきます。例えば、明日のことだけでいっぱいな人、一週間の人、一か月の人、一年の人、十年の人、百年の人、千年の人、永遠の人では今の行動の質量は全く変わっていくのです。

私は、どうも変わっているタイプのようで永遠や千年にもまた今日明日にも興味があります。どちらにも興味があるからか、一日の中でその時間帯を何度も行き来します。しかしふと立ち止まって初心を省みていると、どれくらい先を見据えていくかとよく考えます。

昔の人々、またご先祖様たちはいったいどれくらい先を見据えていたのでしょうか。今に現存する伝統や歴史、文化の中にその見据えていた未来を感じることができます。その人の自利や利己などはもはや歴史の篩にかけられて残っておらず、ただ遺るのはその遺徳ばかりです。自分のことよりも如何に未来を見据えて自分のやるべき使命を真摯に遣り尽していたかを感じます。

情報化社会の中で、日々に膨大な量の情報が行き交います。そんな時代では、一寸先は分からないほどの目で追うにも難しい時代であることはすぐにわかります。そんなことから忙しくなり、毎日に忙殺されちょっと先のことを考えるだけでいっぱいになるのも分かります。

だからこそ「どれくらいまで先を見据えているか」という自問自答は、大事なものを守り抜くために必要な問いであろうと思うのです。

それは企業理念や組織の風土改革においても同じく、なんでこんなことをやっているのかと周囲に言われても手綱を緩めずにしっかりと引き締めて歩んでいくことに似ています。

実践の大切さというのは、それこそが先を見通した行動であるからに他ならないからです。不確かな将来だからこそ、一寸先が見えにくい時代だからこそ、どの方角に向かっているか、そしてその方角の先に何を見据えているかというものを常に自覚していなければなりません。

一人一人がリーダーであり、一人一人が主人公だからこそ本質を守り大切なものを維持するために常に見据えるものを持ち続けていくことが自分の未来を自ら創り上げていくことになり、それが子孫へ受け継がれ新しい今を創造していく基礎になっていくと私は思います。

周囲に理解されなくても、見据えているものを一緒に分かち合う仲間ができるまで遣り切っていきたいと思います。

好奇心の醍醐味

「好きこそものの上手なれ」という諺があります。広辞苑には「好きなればこそ、飽きずに努力するから、遂にその道の上手となる」と書かれています。この好きは、好き嫌いの「好き」という意味もありますが私の人生体験では他にも「好奇心」の時の「好き」があるように思うのです。

この好奇心の時の「好き」には、ポジティブで楽観的、その道を深く味わうような意味もあるように思います。物事を好転させるという時の「好」もまた、同じく面白そうや楽しそうといった遊び心が働き楽しい方を優先していくのです。

なんでも「好き」が一番である理由は、それだけ好きという意味には深い意味があり、好きであり続けるためにその道を楽しんでいるのです。同じ人生であるのならば、人生を如何に面白く楽しくするかは自分自身の生き方次第です。

高杉晋作の辞世に「おもしきことのないこの世をおもしろく」と詠みましたが、どんなときにも最期まで持ち前の好奇心、好手を発揮して生きるというのは人生の醍醐味を感じつつ、いのちを慶ばせそのものの寿命を全うすることに似ています。これもまた自然の生き方です。私も自然のままにいのちそのものを燃え盡す生き方に憧れを感じます。この憧れもまた好奇心です。

好奇心というのは、いわば子どもの心です。

子ども心は、無邪気に純粋に物事をみつめます。なんでも不思議に観えるその世界は面白さに溢れており、あるがままの存在が好きでたまりません。子どもはその好きな気持ちに素直で正直ですから、時には周りが観えなくなることもあります。しかしそんな時、周囲の大人が見守ってくれていればより安心してその子どもはそのことに夢中になっていくものです。夢中になれるものがあり、それが世の中に活かせるようにしていく周囲の見守りがある。

つまり大事なことは子どもか大人かではなく、その好きで夢中なっている子どもをどう見守り、それを如何に世の中のお役に立てるかを助けてあげることが今を少し先に歩むものたちの使命ではないかとも思うのです。

ある歳を越え、保育の面白さ、好奇心の大切さがいよいよ味わい深く感じられてきました。これもまた師や友、メンターの御蔭様なのでしょう。

子どもたちのお手本になるような生き方ができるように、引き続き子どもの心を見守りながら子どもが安心して暮らしていける社會を創造していきたいと思います。