昨日は、熊本から長くお付き合いいただき一緒に理念の実現に向かって取り組んでいるお客様が聴福庵にきてくださりお泊りされました。
すぐに箱庭を気に入っていただき、庭木がとても喜んでいるように見えると仰られありがたい気持ちになりました。ちょうど昨年、鬱蒼とした庭木の剪定を素人ながらに必死に行いすっきりさせ、その庭に年代物の春日燈篭や江戸中期の壺、そのほかにも竹垣や土器、睡蓮鉢にメダカを育て水盤、いろいろな道具も配置していきました。
それに苔も8種類ほどのものを混植し、観音竹や山の清流に流れている石や草草なども移動しました。それから約一年経ち、鑑賞していただけるものになりそれを誉めてくださる方が出てくると、庭に一つの空間が宿ったことを感じます。
そもそもこの「宿る」という言葉は、いのちが宿るや魂が宿る、もしくは宿命といういい方もします。この宿は、単に泊まる場所をいう場合と、宿るといってそこにすまうものがあるという意味もあります。
私たちの体にもいのちと魂が宿ることで存在します。宿っていないものはすぐにわかります。この宿るというのは、目には見えませんが確かにそこには思いや願い、祈りや精神、そういうものがいつまでも留まっているということです。
魂を宿しておくというのは、体がたとえなくなったとしてもその魂自体はその空間やその道具に遷して留めておくということです。それは物に限らず、言葉であったり、建物であったり、遺し方はいろいろとありますが大切なのは宿らせることなのです。
暮らしも同じく、そこの家で取り組んできたものはその空間に宿り続けています。それは継いでくれる人によってさらに高められ、確かに宿ったものに由って甦るのです。
私たちは死んでなくなるという発想を持つのは自分のことや自分の代のことだけばかりを考えるからで、死なない存在がある、つまり宿るのだということに気づけばその生き方やプロセスの方を大切にすると思うのです。
宿っているものを見てくれる人がいることがありがたく、この道をしっかりと踏みしめていきたいと決意と覚悟を新たにしました。
子どもたちのために、何を大切にし譲っていくか、本質を守り続けていきたいと思います。