昨日、自由の森学園の体育祭を見学する機会がありました。子どもたちがのびのびと自由に自分たちの体育祭を楽しんでいる様子にほのぼのとした雰囲気がありました。いろいろなことを外から強制せずに自分たちで物事を主体的に取り組むようになるには、自分自身と向き合う必要が出てきます。
自分自身と向き合う中で、どのようなルールを自らで設定するか。ここに自律を学ぶ意味があるように思います。
私の会社も自由にしていますが、その自由の意味が最初はわからず周りから与えられたルールに従ってきた人たちは困惑して最初は何もできなくなるものです。しかし周りを見渡して、誰かから与えられたルールではなく自分自身が決めたルールに従うことで得られる自由に気づきます。
それでも与えられた自由のことが忘れられず、誰かに決めてもらおうとしたり、責任者に自分の管理を押し付けたり、会社のせいにしたりトップのせいにしたり、もしくは権利ばかりを主張してきたりするものです。
本来、自由というのは自分で決められる自由です。それを最初からできないものだと決めつけて自分で決めようとはせず、誰かによって決められたものでそれは決して自分では決めてはいけないものだと考えるほど不自由なことはありません。
無理をして限界がくれば会社を辞めればいいと努力している人もいますが、こんなのは誰かの決めたルールに従って無理に働いているだけで自分から成長を楽しんで働いているのではありません。
自分で決める自由というのは、誰かがそれを決めていたとしても自分が納得していればそれは自由です。それが主体性を発揮しているともいえます。例えば、私も疲れた時や大変な苦労の時に、なぜこんなことをと思う時もありますがよく考えてみると自分で選んだ道ではないかと思い直せばその柵から自由になり前向きに明るく取り組むことができています。
これも先ほどの自律と自由の話の一つで、自分が決めたことを自分でやりきることほどの自由はなく、誰かにやらされて仕方なくやる不自由とは異なるものです。自分で選択したことに責任を持つというのは、決してつらいことではなく、よく覚悟を決めることは大変なことだと勘違いされていますが本来の覚悟を決めることは自由になることを意味するのです。
自由というのは、自分の人生に自分が責任を持つということです。決して誰かのせいにするのではなく、すべての人生は自分が主体的に創造する主人公であるのだとこの自分が創造する世界の全責任を自分が持つということです。
物事をどのように感じるのかもその人次第ですし、出来事や機会に対してどのように接するかもその人次第、時間の使い方も人生の使い道もまたその人次第。どんな境遇にあったとしても、それをどう活かすかはすべてその人の責任、その人の自由なのです。
そうしてみると、子どもたちがこの自分で決める自由を学び社會に出ていくというのはとても大切なことのように思います。不自由の中で一生を終える人と、不自由は自分自身が決めているのだと悟り、自分が主体的に世界の責任を持つと決めて自分ルールを持ち自由に生きていくのではその社會の未来も変わっていきます。
引き続き、子どもたちの可能性を感じつつも子どもの憧れる会社を目指しているのだから社會と自分自身と向き合い、どのようなすばらしい社會にしていくかを掘り下げ、世界のモデルケースを研究し、どんどん楽しいルールを会社で創り自律を高め、新しい自由を社業を通して世の中に広めていきたいと思います。