昨日、郷里の神社の境内の清掃と手水舎の洗浄を行う機会がありました。朝早くからクルーたちと一緒に掃除をしましたが綺麗に枯れ葉が片付いてもともとあった土が出てくる様子や、雑草を抜いて平らになった様子をみていたら心も洗われてきます。
そのほか、お社や狛犬、燈篭にいたるまで掃き掃除や拭き掃除をやっていくと清々しくそのものが光り始めます。
掃除の功徳というのはとても偉大で、実践していくと次第に心が整ってきます。最近は都会の社会で情緒不安定になったり、感情の浮き沈みが激しい人も増えてきていますが掃除を行うことでそういうこともまた治まってきます。
日本を美しくする会を主催する鍵山秀三郎氏は掃除の功徳についてこういいます。
1、自分の心が清められる
2、他人の心まで清めることができる
3、周囲の環境が活き活きしてくる
4、周囲の人の心も物事も整ってくる
5、死後、必ず天上に生を受ける
これはお釈迦様の言ったことを解釈されたそうですが、掃除をしているとまさにこれを実感します。掃除や清掃は心身を健やかにし、さらには自分自身の魂を磨くことができるように思います。
今、させていただいている古民家甦生もそうですが私にとってのおもてなしの基本は掃除です。来客がある際、何をもっともはじめに取り組むか、それを掃除にしています。
人は清浄な場に来ると、心が和みます。それはそのものたちが清掃することによって働き始めるからです。
例えば、清掃しながらどこが汚れているか、何がちらかっているか、そしてどこに配置するといいか、一つ一つを片付けながらそれが観えてきます。本来あるべきところに配置されたものはその場に和みます。そしてチリや埃をとって磨かれて光るものはその場で輝きます。さらには、整ったあとにそこを飾ることによって豊かさは増幅していきます。
あとは静かに穏やかな心でお客様をお迎えすればお互いに心豊かです。
このお互いに心豊かというものの中に一期一会の出会いが演出されるのです。
鍵山秀三郎氏は掃除道を通して境地を得ています。
「人間の心は、そう簡単に
磨けるものではありません。
ましてや、心を取り出して
磨くことなどということはできません。
心を磨くには、とりあえず、
目の前に見える物を
磨ききれいにすることです。
とくに、人のいやがる
トイレをきれいにすると、
心も美しくなる。
人は、いつも見ているものに
心も似てきます。」
そして掃除を実践する大切さについて説きます。
「一つや二つ拾ったってしょうがないじゃないか。という考えではなく、一つでも二つでも拾えば、それだけ世の中がきれいになる。そういう考えです。」
心が荒んで乱れているとき、心田を耕すには荒れたものを美しくしていくしかありません。衰退して乱れていく場所や、その生活を立て直し甦生にするには荒れた場所に一人入り、そこを開墾して人道が働き始める場所を創造しなければなりません。そのためには、大言壮語をいうことよりも必要なのは脚下の実践であろうと私は思います。
最後に、自戒を籠めて鍵山氏の言葉で締めくくります。
「足元のゴミひとつ拾えぬほどの人間に、何ができましょうか。」
理念を実践し、本業を成就させ、子どもの憧れるような社會を譲っていくためにも一つ一つを苦労しながら味わい楽しんで歩んでいきたいと思います。